・・・しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を夜窃に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑と・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・鉈をとって、つくりかけのひしゃくを二つ三つ、つづけざまにぶちわると、三吉はおもてへとびだしてしまった。 ――こんなとき、以前の三吉は、小野か津田をたずねていったが、いまはそれもできなかった。町はずれへでて、歩きまわるうち、いつか立田山へ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・uffes,Comme le vol craintif l'invisibles oiseaux,Le lger tremblement de brises etouffes.静なる池のおもてに蘆は俄に打ちそよぎつ。そは遮ぎ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺うを得て、無限の新生命に接することができる。・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・「オーイ、昨夜はもてたかい?」 ファンネルの烟を追っていた火夫が、烟の先に私を見付けて、デッキから呶鳴った。「持てたよ。地獄の鬼に!」 私は呶鳴りかえした。「何て鬼だ」「船長ってえ鬼だったよ」「大笑いさすなよ。源・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・その時の事情をいえば、本人の心に企つるところの事は大に過ぎて、これに応ずべき自己の力は小にして足らず、その大小の平均を得るに路なきがために、無上の宝たる一命をもて己が企つるところの事に殉じ、いささかその情を慰めて、もって快と称するものなり。・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・かきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやう老にたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおもひわづらはるるあまり、からうじて井ほらせけるにいときよき水あふれ出づ、さくもてくみとらるべきばかりおほうあるぞいと・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・おもての扉を誰か酔ったものが歌いながら烈しく叩いていて主人が「返事するな、返事するな。」と低く娘に云っていた。さっきの男も帰って娘もどこかに寝ているらしかった。「寝たのか、まだ明るぞ。起きろ。」 外ではまたはげしくどなった。(ああこ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・配給と買出しにしばられて、会合に出席する時間さえもてないでいる主婦たちの毎日が、どんなに凌ぐに張合あるものとなって来るだろう。大小の軍需成金たちは、戦時利得税や、財産税をのがれるために濫費、買い漁りをしているから、インフレーションは決して緩・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・松向寺殿聞召され、某に仰せられ候は、その方が申条一々もっとも至極なり、たとい香木は貴からずとも、この方が求め参れと申つけたる珍品に相違なければ、大切と心得候事当然なり、総て功利の念をもて物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやそ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫