・・・例えば、瑣末な例であるが『武道伝来記』一の四に、女に変装させて送り出す際に「風俗を使やくの女に作り、真紅の網袋に葉付の蜜柑を入」れて持たせる記事がある。この網袋入りの蜜柑の印象が強烈である。また例えば『桜陰比事』二の三にある埋仏詐偽の項中に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・山人は誠に畸人であって、わたくしの方から是非にといって頼むことは一向してくれないが、頼みもしない事を、時々心配して世話をやく妙な癖があった。或日わたくしに向って、何やら仔細らしく、真実子供がないのかと質問するので、わたくしは、出来るはずがな・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行ったことも結局何のやくにも立たず、取られるものは矢張取られる事になった。それのみならず金に添えて詫状一札をも取られるという始末である。まだまだその上に博文館では僕を引張り出して飯を食わせたいとの事。・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵かして、愁は衣に堪えぬ玉骨を寸々に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束の間の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・博士が忽然と著名になったのは、今までまるで人の眼に触れないで経過した科学界という暗黒な人世の象面に、一点急に輝やく場所が出来たと同じ事である。其所が明るくなったのは仕合せである。しかし其所だけが明るくなったのは不都合である。 一般の社会・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
発電所の掘鑿は進んだ。今はもう水面下五十尺に及んだ。 三台のポムプは、昼夜間断なくモーターを焼く程働き続けていた。 掘鑿の坑夫は、今や昼夜兼行であった。 午前五時、午前九時、正午十二時、午後三時、午後六時には取・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・と、呟やくように言ッた吉里の声は顫えた。 まだ温気を含まぬ朝風は頬にはりするばかりである。窓に顔を晒している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦え上ッて、今は耐えられなくなッた。「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そんな風にしていましたから、人の世話ばかり焼くイソダンの人達も、わたくしの所へあなたのいらっしゃるのをなんとも申さないで、あれは二親の交際した内だから尋ねて往くのだと申していましたのです。 しかしわたくしがそんな気でいましたから、あなた・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・はれ親なし髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし 母の三十七年忌にはふ児にてわかれまつりし身のうさは面だに母を知らぬなりけり 古書を読みて真男鹿の肩焼く占にうらとひて事あきらめし神代をぞ思・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫