・・・世の中は広いものです、広い世の中に一本の木綿糸をわたして、傍目も触らず、その上を御叮嚀にあるいて、そうして、これが世界だと心得るのはすでに気の毒な話であります。ただ気の毒なだけなら本人さえ我慢すればそれですみますが、こう一本調子に行かれては・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯握りしめた。 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云ったかね。ええ。」 下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでに・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯というものは、悲が三分一で、後の二分は心配と責苦とであ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・is made so meet.” 其意は、女の方が、私はお前の所へ行き度いが、お前の枕元か足元か、又は傍らの方に、私がはいこむ程の隙があるかというて、問うた所が、男の方即ち幽霊が答えるには、わたしの枕元にも、足元にも、傍らにも少し・・・ 正岡子規 「死後」
・・・五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話された。武田先生と菊池先生がついて行かれるのだそうだ。行く人が二十八人にならなければやめるそうだ。それは県の規則が全級の三分の一以上参加するようになってるからだそうだ。けれど・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「ぼく、くつが小さいや。めんどうくさい。はだしでいこう。」「そんならぼくのとかえよう。ぼくのはすこし大きいんだよ。」「かえよう。あ、ちょうどいいぜ。ありがとう。」「わたしこまってしまうわ、おっかさんにもらった新しい外套が見え・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・そしてわたしたちは長い間、客観的な文芸評論というものを持たされなかった。きょう、またおどろくような迅さで、日本の人民生活と文化とが高波にさらされようとしているとき、文学を文学として守るためにも、この著者の諸評論は丈夫な足がかりを与えるもので・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・ すっと教室へ入って来て、生徒の一人である乾物屋の娘に何か書いたものを渡した。こちらからその光景を眺め、受持の先生も、家へかえれば主婦なのだからそのかんで、ハハア玉子のことでもたのんでいるな、と察した。乾物屋の娘はもとその先生に習った子・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・』 そこで伍長はまた、言った、『アウシュコルン、お前ちょっとわたしといっしょに役場に来てくれまいか。メイル殿がお前と話したいことがあるそうで。』 アウシュコルンは驚惶の体で、コーンヤックの小さな杯をぐっとのみ干して立ちあがった。・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫