・・・もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。 ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・しかしながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名という陛下の赤子、しかのみならず為すところあるべき者どもを窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じてこれが責任を負わねばなら・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・何物にかぎらず多年使い馴れた器物を愛惜して、幾度となく之を修繕しつつ使用していたような醇朴な風習が今は既に蕩然として後を断ったのも此の一事によって推知せられる。 明治三十年の春明治座で、先代の左団次が鋳掛松を演じた時、鋳掛屋の呼び歩く声・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・そしてこの一事が、僕のニイチェから受けた教育のあらゆる「全体のもの」なのである。 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・その考えは平田の傍に行ッているはずの心がしているので、今朝送り出した真際は一時に迫って、妄想の転変が至極迅速であッたが、落ちつくにつれて、一事についての妄想が長くかつ深くなッて来た。 思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・よしや仮令いおしゃべり多言にても、僅に此一事を根拠にして容易に離縁とは請取り難し。第七物を盗む心あるは去ると言う。物を盗むにも軽重あり。唯この文字に由て離縁の当否を断ず可らず。民法の親族編など参考にして説を定む可し。 右第一より七に至る・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・たりという一事はこれを証して余りあるべし。その敬神尊王の主義を現したる歌の中に高山彦九郎正之大御門そのかたむきて橋上に頂根突けむ真心たふとをりにふれてよみつづけける吹風の目にこそ見えぬ神々は此天地・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 日本の民主化ということは、大したことであるという現実の例がこの一事にも十分あらわれていると思う。 こういう、云わば野暮な、問題のありのままの究明が、私たちの心に訴える力をもっているのは、決して只、その問題の書きかたがこれまでの「女・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・然るにここに幸なるは、一事の我趣味の猶依然たることを証するに足るものがある。それは何であるか。予は我読書癖の旧に依るがために、欧羅巴の新しい作と評とを読んで居る。予は近くは独逸のゲルハルト・ハウプトマンの沈鐘を読んだ。そして予はこの好処の我・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・が、自分の吝嗇の一事として、曽て勘次を想わない念から出たことがあっただろうか? 彼女は追っ馳けていって自分の悩ましさを尽く勘次に投げかけてやりたくなった。すると涙が溢れて来た。十二 お霜が安次の小屋へ行ってみたとき、もう組の・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫