五月三日「あの男はどうなったかしら」との噂、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。 この大河今蔵、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。「時に大河・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなって、なぜ一しょに帰らなかったろう、今時分は家に着いて祖母さんと何か話してござるだろうなど思いますと堪らなくなって叔母にこれか・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「私も可哀そうでならなかったけエど、つまり私の傍に居た処が苦しいばかりだし、又た結局あの人も暫時は辛い目に遇て生育つのですから今時分から他人の間に出るのも宜かろうと思って、心を鬼にして出してやりました、辛抱が出来ればいいがと思って、……・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・『姉さんはおっかさんとどこかへ出ましたよ』と綾子は答えた。『なんて! 出ましたッて!』と言った文造の心は何となく穏やかでなかった。『姉さんは今時分いつでも家にいるはずでしょう、あなたのおけいこの時刻だから。』『姉さんはもうこれからは・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 五月一日の朝のことである。今時分、O市では、中ノ島公園のあの橋をおりて、赤い組合旗と、沢山の労働者が、どん/\集っていることだろうな、と西山は考えた。彼は、むほん気を起して、何か仕出かして見たくなった。百姓が、鍬や鎌をかついで列を作っ・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・ 今時分、人一人通ろうようは無い此様なところの雪の中を、何処を雪が降っているというように、寒いも淋しいも知らぬげに、昂然として又悠然として田舎の方から歩いて来る者があった。 こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥では無・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・しかし今時分の鮒を釣っても、それが釣という遊びのためでなくって何の意味を為そう。桜の花頃から菊の花過ぎまでの間の鮒は全く仕方のないものである。自分には合点が行かなかったから、 遊びじゃないように先刻お言いだったが、今の鮒なんか何にもなり・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ なぜ充分に肉のかおりをも嗅がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。 社のガラス戸を開けて戸外に出る。終日の労働で頭脳はすっかり労れて、なんだか脳天が痛いよ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・「ぱっとできるようなら、今時分こんな苦労していませんよ。それでいいもんや。さんざ男を瞞した人の行末を見てごらんなさい。ずいぶんひどいもんや」 そしてお絹がそういう女の例を二つ三つ挙げると、最近客と京都へ行っていて、にわかに気の狂った・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫