・・・いくばくぞ、かみつかまれつその日と夜を送り、そのほゆる声騒がしく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがために耳傾くるは大空の星のみ――月さゆる夜は風清・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・日光とか碓氷とか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林が隈なく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・青年は筆を止めて耳傾くるさまなりしが、『わが力いずこにありや。口渇きし者の叫ぶ声を聞け、風にもまるる枯葉の音を聞け。君なくしてなお事業と叫ぶわが声はこれなり。声かれ血涸れ涙涸れてしかして成し遂ぐるわが事業こそ見物なりしに。ああされど今や・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・何事かを好み、傾くということがそのことへの愛と練達との基礎だからである。「この一技につながる」という決意は人間的にも肝要なものである。またそれとともに、職能というものは真摯にラディカルに従事して行けば、必ず人生哲学的な根本問題に接触してくる・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・で、糸目の着加減を両かしぎというのにして、右へでも左へでも何方へでも遣りたいと思う方へ紙鳶が傾くように仕た上、近傍に紙鳶が揚って居ると其奴に引からめて敵の紙鳶を分捕って仕舞うので、左様甘く往くことばかりは無かったが、実に愉快で堪えられないほ・・・ 幸田露伴 「少年時代」
見るさえまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらとかなたこな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・而してその当然の解釈が、信ぜず従わずをもって単なる現状の告白とせず、進んでこれを積極の理想とするに傾くとすれば、これも私には疑惑圏内の一要素となるばかりで、最後の解決とはならない。 かくのごとくしていわゆる人生観上の自然主義も私には疑い・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・歎くように垂れた木々の梢は、もう黄金色に色づいている。傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく彷徨い歩く。私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩い・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・少し厭き気味になると父上に謡をうたえの話をせよのとねだっているうちに日が西に傾く。しかし今度は朝のような工合に行かぬ。大体が西を向いて行くのであるから、椎茸は車の右脇へ頭を出したり左へ出したり。どうかすると自分の脚の上へ来るのでキャッ/\と・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・元来この種の問題の論議は勢い抽象的に傾くが故に、外観上往々形而上的の空論と混同さるる虞あり。科学者にしてかくのごとき問題に容喙する者は、その本分を忘れて邪路に陥る者として非難さるる事あり。しかれども実際は科学者が科学の領域を踏み外す危険を防・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
出典:青空文庫