・・・あの時の氷店の跡などももうたしかに其処とも分らぬ。平一は過ぎた一夜の事をさながらに一幅の画のように心に描いてみる。 図書館の前から上野も奥へ廻ると人通りは少ない。森の梢に群れていた鴉の一羽立ち二羽立つ羽音が淋しい音を空に引く。今更らしく・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・ 爺さんは植木屋の頭に使われて、其処此処の庭の手入れをしたり垣根を結えたりするのが仕事なのだ。それでも家には小金の貯えも少しはあって、十六七の娘に三味線を仕込などしている。遊芸をみっちり仕込んだ嫖致の好い姉娘は、芝居茶屋に奉公しているう・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・そしてこれも顔を赤くホテらした断髪の娘は、土堤から畑の中へ飛び下りると、其処此処の嫌いなく、麦の芽を、踏みしだきながら、喚めいた。「チロルや、チロルや」 五 善ニョムさんは、もう勘弁出来なかった。麦の芽達は、無惨・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買い占め、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家・・・ 永井荷風 「狐」
・・・おっつあんというのはおじさんでもなく又おとっつあんでもない。其処には敬称と嘲侮との意味を含んで居る。いつが起りということもなくもう久しい以前からそうなって畢った。彼は六十を越しても三四十代のもの、特に二十代のものとのみ交って居た。彼の年輩の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒久を認識してもらう方が彼らのために得策ではなかろうかと思う。――明治四三、七、二三『東京朝日新聞』――・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・』 私は若子さんの後に尾いて、停車場の内へ這入ろうとした時、其処に物思わしげな顔をしながら、きょろきょろ四辺を見廻して居た女の人を見ました。唯一目見たばかりですが、何だか可哀相で可哀相でならない気が為たのでした。 そうねえ、年は、二・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・実際の真面目を言えば、常に能く夜を守らずして内を外にし、動もすれば人を叱倒し人を虐待するが如き悪風は男子の方にこそ多けれども、其処を大目に看過して独り女子の不徳を咎むるは、所謂儒教主義の偏頗論と言う可きのみ。一 女子は稚時より男・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・無論浅薄じゃあるけれども、其処にまた活々とした処がある。私の様に死んじゃ居ない。で、其女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種の引力を起させる。あながち惚れたという訳でも無い。が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というもの・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・しかしまた一方からいうと、木の実というばかりでは、広い意味に取っても、覆盆子や葡萄などは這入らぬ。其処で木の実、草の実と並べていわねば完全せぬわけになる。この点では、くだものといえばかえって覆盆子も葡萄もこめられるわけになる。くだもの類を東・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫