・・・室内の鈍い光線も八つ手の葉に遮ぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらいに、幽かに輪廓が分明して、眼の下や、両頬に、真黒い陰影がわだかまり、げっそり痩せて、おそろしく老けて見えて、数枝も、話ながら、時おり、ちらと高須の顔を横目で見ては、・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・果してそうならば、私もいまから自分の所属を分明にして置く必要がある。母と子とに等分に属するなどは不可能な事である。今夜から私は、母を裏切って、この子の仲間になろう。たとい母から、いやな顔をされたってかまわない。こいを、しちゃったんだから。・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・他は皆、なんでも一切、千々にちぎれ飛ぶ雲の思いで、生きて居るのか死んで居るのか、それさえ分明しないのだ。よくも、よくも! 感想だなぞと。 遠くからこの状態を眺めている男ひとり在りて曰く、「たいへん簡単である。自尊心。これ一つである。」・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ まず最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間的関係の差別である。舞踊や劇は一定容積の舞台の上で演ぜられ、観客は自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・政府が君らを締め殺したその前後の遽てざまに、政府の、否、君らがいわゆる権力階級の鼎の軽重は分明に暴露されてしもうた。 こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ だんだん心やすくなるにつれて、お民の身の上も大分明かになって来た。お民の兄は始め芸者を引かせて内に入れたが、間もなく死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わしからず、と・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 連続と云う字を使用する以上は意識が推移して行くと云う意味を含んでおって、推移と云う意味がある以上は意識に単位がなければならぬと云う事とこの単位が互に消長すると云う事とは消長が分明であるくらいに単位意識が明暸でなければならぬと云う事と意・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・リ悪意ヲ以テ遺棄セラレタルトキ七 配偶者ノ直系尊属ヨリ虐待又ハ重大ナル侮辱ヲ受ケタルトキ八 配偶者カ自己ノ直系尊属ニ対シテ虐待ヲ為シ又ハ重大ナル侮辱ヲ加ヘタルトキ九 配偶者ノ生死カ三年以上分明ナラサルトキ十 壻養子縁組ノ場合・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 政談の中に漸進論と急進論なるものあれども、あまり分明なる区別にも非ず。いずれにも進の義は免かれず。ただ、その進の方法を論じたるものならん。これをたとえば、飢たる時に物を喰うは同説なれども、一方は早く喰わんといい、一方は徐々に喰わんとい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を許すなどと命を出すゆえ、その命令は一藩経済のため歟、衣冠制度のため歟、両様混雑して分明ならず。恰も倹約の幸便に格式りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱き、到底・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫