・・・ 或夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・ すると大学を卒業した年の秋――と云っても、日が暮れると、しばしば深い靄が下りる、十二月の初旬近くで、並木の柳や鈴懸などが、とうに黄いろい葉をふるっていた、ある雨あがりの夜の事である。自分は神田の古本屋を根気よくあさりまわって、欧洲戦争・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・――十一月初旬で――松蕈はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる隙もあらせず、「旦那さんどうですね。」とその魚・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・彼ら五人の親子は、五月の初旬にG村へ引移ったのであった。 彼は、たちまちこのあばらやの新生活に有頂天だったのである。そしてしきりに生命とか、人類の運命とか、神とか愛とかいうことを考えようとした。それが彼の醜悪と屈辱の過去の記憶を、浄化す・・・ 葛西善蔵 「贋物」
私は奈良にT新夫婦を訪ねて、一週間ほど彼らと遊び暮した。五月初旬の奈良公園は、すてきなものであった。初めての私には、日本一とも世界一とも感歎したいくらいであった。彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭を借りて、ままごとのような理想的な新婚・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ 九月初旬三度目に行ったときには宿の池にやっと二三羽の鶺鴒が見られた。去年のような大群はもう来ないらしい。ことしはあひるのコロニーが優勢になって鶺鴒の領域を侵略してしまったのではないかと思われる。同じような現象がたとえば軽井沢のよう・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 二 とんぼ 八月初旬のある日の夕方信州星野温泉のうしろの丘に散点する別荘地を散歩していた。とんぼが一匹飛んで来て自分の帽子の上に止まったのを同伴の子供が注意した。こういう事はこの土地では毎日のように経験することであ・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・五月初旬であったかと思う。ニューヨークの宿へ荷物をあずけて冬服のままでワシントンへ出かけた時には春のような気候であった。華府を根拠にしてマウント・ウェザーの気象台などを見物して、帰ってくると非常な暑さで道路のアスファルトは飴のようになり、馬・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。堤上の桜花もまた水害の後は時勢の変遷するに従い、近郊の開拓せらるるにつれて次第に枯死し、大正の初に至っ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・よって本月初旬より、内外の社員教員相ともに談じたることもあれば、自今都合次第にしたがい、教場また教則に少しく趣を変ずることもあるべし。学生諸氏は決してこれを怪しむなかれ。吾々は諸氏の自尊自重を助成する者なり。 本塾に入りて勤学数年、卒業・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
出典:青空文庫