・・・ ちょうどその刹那だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中にお時儀をしたい衝動を感じた。けれどもそれは懸け値なしに、一瞬の間の出来事だった。お嬢さんははっとした彼を後ろにしずしずともう通り過ぎた。・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。「好い塩梅ですね。」「今度はおさまったようでございます。」 看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那に忽如として現われ出たのだ。 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼がしらに滲み出て来た。それを私はお前たちに何んといっていい現わすべ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・次の刹那には、足取り行儀好く、巡査が二人広間に這入って来て、それが戸の、左右に番人のように立ち留まった。 次に出たのが本人である。 一同の視線がこの一人の上に集まった。 もしそこへ出たのが、当り前の人間でなくて、昔話にあるような・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 青い星を見た刹那から、彼女を北へ北へとしきりに誘惑する目に見えない不思議な力がありました。 とうとう、二、三日の後でした。年子は、北へゆく汽車の中に、ただひとり窓に凭って移り変わってゆく、冬枯れのさびしい景色に見とれている、自分を・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・けれども、それに依って刹那の前後の気持は現われても、それ以上時間的に現わすと云うことは、どうも絵画の領域でないように思われる。 この絵を描くと云うような気持で、更に想像的に作者の気持を文章の上に於て書き得ると信ずる。それが即ち文芸上の色・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・ 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈すら感じたのであった。 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚れたように眺め廻した。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と、彼も子供の顔を見た刹那に、自分の良心が咎められる気がした。一日二日相手に遊んでいるうち、子供の智力の想ったほどにもなく発達しておらないというようなことも、彼の気持を暗くした。「俺も正式に学校でも出ていて、まじめに勤めをするとか、翻訳・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・崕を蹈外そうとした刹那の心持。 自分は暫らく茫然として机の抽斗を眺めていたが、我知らず涙が頬をつとうて流れる。「余り酷すぎる」と一語僅かに洩し得たばかり。妻は涙の泉も涸たか唯だ自分の顔を見て血の気のない唇をわなわなと戦わしている。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫