・・・どんな大将だって初めは皆な少尉候補生から仕上げて行くんだから、その点は一向差閊えない。十分やって行けるようにするからと云うんで、世帯道具や何や彼や大将の方から悉皆持ち込んで、漸くまあ婚礼がすんだ。秋山さんは間もなく中尉になる、大尉になる。出・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・明治の今日に生を享くる我らは維新の志士の苦心を十分に酌まねばならぬ。 僕は世田ヶ谷を通る度に然思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・西欧のオペラ及バレエが日本の演芸界に相応の感化を与えるには既に十分なる時間である。況や帝国劇場は西洋オペラを招聘する以前に在って、曾て一たび歌劇部を設けて部員を教練したことさえあるに於てをや。思うに日本の演芸界は既に種々なる新運動を試みてい・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・そうして文造を見つけていきなりばらばらと駈けて来る。鼻先は土で汚れて居る。赤は恐ろしい威勢のいい犬であった。そうして十分に成長した。夜はよく足音を聞きつけて吠えた。昼間でも彼の目には胡乱なものは屹度吠えられた。次の秋のマチが来た。太十は例の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大に参考すべき長詩で・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 私は十分警戒した。こいつ等三人で、五十銭やそこらの見料で一体何を私に見せようとするんだろう。然も奴等は前払で取っているんだ、若し私がお芽出度く、ほんとに何かが見られるなどと思うんなら、目と目とから火花を見るかも知れない。私は蛞蝓に会う・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・『もう可いから、彼方へ御行で……お前の云った事は、既う充分解ってる。其処を退いたら可いだろう。邪魔だよ、何時までも一人で、其処を占領しているのは。御覧、皆さんが彼様に立って居らッしゃるじゃないか。』 其女の方の後には、幾個かの人の垣・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・之を喩えば青天白日、人に物を盗まれて、証拠既に充分なるに、盗賊を捕えて詮議せんとすれば則ち貪慾の二字を持出し、貪慾の心は努ゆめゆめ発す可らず、物を盗む人あらば言語を雅にして之を止む可し、怒り怨む可らず、尚お其盗人が物を返さずして怒ることあら・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・適切ならざれば意充分に発達すること能わず。意は実相界の諸現象に在っては自然の法則に随って発達するものなれど、小説の現象中には其発達も得て論理に適わぬものなり。譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
出典:青空文庫