・・・汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のようなのが一人――いずれにしても赤坂麹町あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。 車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋行の電車と前後して北へ曲り、源森橋をわたる。両側とも商店が並んでいるが、・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 麹町の三丁目で、ぶら提灯と大きな白木綿の風呂敷包を持ち、ねんねこ半纏で赤児を負った四十ばかりの醜い女房と、ベエスボオルの道具を携えた少年が二人乗った。少年が夢中で昨日済んだ学期試験の成績を話し出す。突然けたたましく泣き出す赤児の声に婆・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・模様は蝦夷人の着る半纏についているようなすこぶる単純の直線を並べて角形に組み合わしたものに過ぎぬ。彼は時として槍をさえ携える事がある。穂の短かい柄の先に毛の下がった三国志にでも出そうな槍をもつ。そのビーフ・イーターの一人が余の後ろに止まった・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子の半襟を掛けた綿入れに、緋の唐縮緬の新らしからぬ長襦袢を重ね、山の入ッた紺博多の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳も老けていたら、花魁の古手の新造落ちと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・雨戸を一枚だけ明けた乾物臭い暗い奥から、汚れた筒っぽ袢纏を着た女房が首を出した。 なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・ 印袢纏にゴム長靴を引ずった小僧が、岡持を肩に引かつぎ、鼻唄まじりで私の傍によって来た。どんな面白いものを見ているのか、と云う風で。 彼は、一寸立ち止る。じろりと見渡す。何処も彼処も、彼には一向面白可笑しくもないラムプスタンドばかり・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・平常着を小ざっぱりと趣味をもって、ということは心がけのよい女性たちの念願だと思うが、日本のこれ迄の暮しの感情では、女のふだん着は働き着と同じ性能におかれていて、僅に夕飯後ふだん着の上に羽織られた袢纏が、日本女性のつつましい休息の姿を語ってい・・・ 宮本百合子 「働くために」
・・・ 写生の日傘と、東屋との間の道を、百花園と染抜いた袢纏の男が通る。続いて子供づれの夫婦が来かかった。「お父さん、あんなトンネル、おうちにもあるといいね」「うん」「拵えてね」「お家は狭いから駄目ですよ」「ふーん」・・・ 宮本百合子 「百花園」
・・・ 例の寝台の脚の処に、二十二三の櫛巻の女が、半襟の掛かった銘撰の半纏を着て、絹のはでな前掛を胸高に締めて、右の手を畳に衝いて、体を斜にして据わっていた。 琥珀色を帯びた円い顔の、目の縁が薄赤い。その目でちょいと花房を見て、直ぐに下を・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・女で印袢纏に三尺帯を締めて、股引を穿かずにいるものもある。口々に口説というものを歌って、「えとさっさ」と囃す。好いとさの訛であろう。石田は暫く見ていて帰った。 雛は日にまし大きくなる。初のうち油断なく庇っていた親鳥も、大きくなるに連れて・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫