・・・お絹は手炙りに煙草火をいけて、白檀を燻べながら、奥の室の庭向きのところへ座蒲団を直して、「ここへ来ておあがんなさい」と言うので、道太は長火鉢の傍を離れて、そこへ行って坐った。「今日は辰之助を呼んで鶴来へでも遊びに行こうじゃないか」道・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・明治三十年頃、わたくしが『たけくらべ』や『今戸心中』をよんで歩き廻った時分のことを思い返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・耳にばかり手頼る彼等の癖として俯向き加減にして凝然とする。そうかと思うとランプを仰いで見る。死んだ網膜にも灯の光がほっかりと感ずるらしい。一人の瞽女が立ったと思うと一歩でぎっしり詰った聞手につかえる。瞽女はどこまでもあぶなげに両方の手を先へ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・見ていると三毛猫の大きなやつが障子の破れからぬうと首を突き出して、ニャンとこちらを向きながらないた。 あの猫はね、こっちへ引きこしてきてからも、もとの千駄木の家へおりおり帰って行くのだ。この間も道であいつが小便をたれていると・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 然るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置するもの多・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・(右の方に向き、耳を聳何だか年頃聞きたく思っても聞かれなかった調ででもあるように、身に沁みて聞える。限なき悔のようにもあり、限なき希望のようにもある。この古家の静かな壁の中から、己れ自身の生涯が浄められて流れ出るような心持がする。譬えば母と・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ 三人一緒にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。 私は進みながらまた云いました。「お早う。于大寺の壁画の中の子供さんたち。」「お前は誰だい。」 右はじの子供がまっすぐに瞬もなく私を見て訊ねました。・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・陽子は南向きの出窓に腰かけて室内を眺めているふき子に小さい声で、「プロフェッショナル・バアチャン」と囁いた。ふき子は笑いを湛えつつ、若々しい眼尻で陽子を睨むようにした。その、自分の家でありながら六畳の方へは踏み込まず、口数多い神さん・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫