・・・思わぬ人の誰なるかを知りたる時、天が下に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命に廻り合せたる我を恨み、このうれしき幸を享けたる己れを悦びて、楽みと苦みの綯りたる縄を断たんともせず、この年月を経たり。心疚ましきは願わず。疚ましき中に蜜ある・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・家君さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟も妹も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向もかね・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・曾て東京に一士人あり、頗る西洋の文明を悦び、一切万事改進進歩を気取りながら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・水を汲む女に聞けば旅亭三軒ありといわるるに喜びて一つの旅亭をおとずれて一夜の宿を乞うにこよいはお宿叶わずという。次の旅亭に行けば旅人多くして今一人をだに入るる余地なしという。力なくなく次の旅店に至れば行燈に木賃と書きたる筆の跡さえ肉痩せて頼・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・その秋のとりいれのみんなの悦びは、とても大へんなものでした。 今年こそは、どんな大きな粟餅をこさえても、大丈夫だとおもったのです。 そこで、やっぱり不思議なことが起りました。 ある霜の一面に置いた朝納屋のなかの粟が、みんな無くな・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・その人々が一生をつくして仕上げたいと思う生存の目標に向って進む自己を悦びにより、苦しみにより一層豊饒にし、賢くしてくれる恋愛、それから発足した範囲の広い愛の種々相に対して、私共は礼讚せずにはいられませんが、無限な愛の一分野と思われる恋愛ばか・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心から感じ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ところが三郎は成長するに従って武術にも長けて来て、なかなか見どころのある若者となったので養父母も大きに悦び、そこでそれをついに娘の聟にした。 その時三郎は十九で忍藻は十七であった。今から見ればあまりな早婚だけれど、昔はそのようなことには・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・見ていると、向上ということには進歩と退歩の二つがあって、進歩することだけでは向上にはならず、退歩を半面でしていなければ真の向上とはいいがたいという所に接し、私は自分の考えのあながち独断でなかったことに喜びを感じたことがあった。このようなこと・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・わたしの霊はここを離れて、天の喜びに赴いても、坊の行末によっては満足が出来ないかも知れません、よっくここを弁えるのだよ……」。仰って、いまは、透き通るようなお手をお組みなされ、暫く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫