・・・ついては、いつも思うのであるが、今日は同人雑誌の洪水時代で、毎月私の手元へも夥しい小冊子が寄贈される。扨それらの雑誌を見ると、殆んど大部分が東京の出版であり、熟れも此れも皆同じように東京人の感覚を以て物を見たり書いたりしている。彼等のうちに・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・ 裏切った者があるにもかゝわらず、放たれた豚の数は夥しいものだった。暫らくするうちに、二人のワイシャツはへと/\に疲れ、棒を捨てて、首をぐったり垂れてしまった。……「そら、爺さんがやって来たぜ。」 やっと丘の上へ引っかえして、雑・・・ 黒島伝治 「豚群」
一 帝展 帝展の洋画部を見ているうちに、これだけの絵に使われている絵具の全体の重量は大変なものであろうと考えた。その中に含まれている Pb だけでも夥しいものであろうと思われた。こんな事を考えるほどに近頃・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 毎日夥しい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんな莟んでいる。それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精の握り拳とでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・然るに映画の場合では撮影者が長い時間とフィルムを費やして撮影した夥しい材料の中から、無駄なものを省略し、最も重要なものだけを選び出し、それを巧みに編輯してあるから、観客は極めて短い時間の間にこの動物のあらゆる特徴を最も純粋にまた最も強調され・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・玉島のあたりははらかた釣りが夥しいが、女子供が大半を占めている。種崎の渡しの方には、茶船の旗が二つ見えて、池川の雨戸は空しく締められてこれも悲しい。孕の山には紅葉が見えて美しい。碇を下ろして皆端艇へ移る。例のハイカラは浜行の茶船へのる。自分・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・釜石の港へはいると、何とも知れない悪臭が港内の空気に滲み渡っていて、浜辺に近づくほどそれが猛烈になる。夥しいかもめの群れが渦巻いている。いかの大漁があったのが販路を失って浜で腐ったのであった。上陸後半日もすると、われわれ一行の鼻の神経は悪臭・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・両側の岸には真黒な森が高く低く連なって、その上に橋をかけたように紫紺色の夜空がかかっていた。夥しい星が白熱した花火のように輝いていた。 やがて森の上から月が上って来た。それがちょうど石鹸球のような虹の色をして、そして驚くような速さで上っ・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・忠君忠義――忠義顔する者は夥しいが、進退伺を出して恐懼恐懼と米つきばったの真似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想をふりまく悧口者はあるが、どこに陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ玉うように希う真の忠臣があるか。どこに不忠の嫌・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・旗幟の鮮明ならざること夥しい誰に聞いたって、そんな事が分るものか、さてもこの勝負男の方負とや見たりけん、審判官たる主人は仲裁乎として口を開いて曰く、日はきめんでもいずれそのうち私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫