・・・ベンガール地方の川としては小さいその村の川は、あまり立派でもない家の娘のように、狭い自分の領分を大事に守って居りました。そのいそがしい水の流れは、決して堤から溢れることがありません。けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・やはり、之は、大事に筐底深く蔵して置いたほうが、よかったのでは無かったかと、私は、あのお洒落な粋紳士の兄のために、いまになって、そう思うのでありますが、当時は、私は兄の徹底したビュルレスクを尊敬し、それに東京の「十字街」というかなり有名らし・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 吾々は学問というものの方法に馴れ過ぎて、あまりに何でも切り離し過ぎるために、あらゆる体験の中に含まれた一番大事なものをいつでも見失っている。肉は肉、骨は骨に切り離されて、骨と肉の間に潜む滋味はもう味わわれなくなる。これはあまりに勿体な・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・私大事に取っておいたの」お絹は言っていた。「その庖丁じゃおぼつかないな」道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖丁はさびていても、手が切れるさかえ」老母はそう言って、刃にさわって見ていた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・体ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事のごときこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 息子は金がないのを詫びて、夫婦して、大事に善ニョムさんを寝かしたのだった……が、まだ六十七の善ニョムさんの身体は、寝ていることは起きて働いていることよりも、よけい苦痛だった。 寝ていると、眼は益々冴えてくるし、手や足の関節が、ボキ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・瞽女かぶりといって大事な髪は白い手拭で包んでそうして其髷へ載せた爪折笠は高く其位置を保って居る。覗いたように折れた其端が笠の内を深くしてそれが耳の下で交叉して顎で結んだ黒い毛繻子のくけ紐と相俟って彼等の顔を長く見せる。有繋に彼等は見えもせぬ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去る・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。 物窮まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。 爺いさんはまた二三歩退いた。そして手早く宝石を靴の中に入れて、靴を穿いた。それから一・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫