・・・先方の事情にすぐ安値な同情を寄せて、気の毒だ、かわいそうだと思う。それが動機で普通道徳の道を歩んでいる場合も多い。そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それがみんな清い空気と河の広い見晴しとに、不思議に引寄せられているのである。文明の結果で飾られていても、積み上げた石瓦の間にところどころ枯れた木の枝があるばかりで、冷淡に無慈悲に見える町の狭い往来を逃れ出て、沈黙していながら、絶えず動いてい・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
この新聞の編輯者は、私の小説が、いつも失敗作ばかりで伸び切っていないのを聡明にも見てとったのに違いない。そうして、この、いじけた、流行しない悪作家に同情を寄せ、「文学の敵、と言ったら大袈裟だが、最近の文学に就いて、それを毒・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。 ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘した・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく頬っぺたのひろがったその犬は、最初ものうそうに眼をひらいたが、みるみるうちに鼻皺を寄せて、あつい唇をまくれあがらせた。「――こんにゃく屋でございます」 もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言っ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云う・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・大工のみにかぎらず、無尽講のくじ、寄せ芝居の桟敷、下足番の木札等、皆この法を用うるもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用すべからず。いろはの用法、はなはだ広くして大切なるものというべし。 然るに不思議なる・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯が設けてある。家番に問えば、目指す家は奥の住いだと云った。 オオビュルナンは階段を登ってベルを鳴らした。戸の内で囁く声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(どっちからお出(郡から土性調査をたのまれて盛岡(田畑の地味のお調 老人は眉を寄せてしばらく群青いろに染まった夕ぞらを見た。それからじつに不思議な表情をして笑った。(青金で誰か申し上げたのはうちのことですが、何分汚な・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
出典:青空文庫