・・・ 年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋に眼張のような疵があり、見たところの下品小柄の男である。 善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 明治一六年二月編者識と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・斯程解らぬ無形の意を只一の感動に由って感得し、之に唱歌といえる形を付して尋常の人にも容易に感得し得らるるようになせしは、是れ美術の功なり。故曰、美術は感情を以て意を穿鑿するものなり。 小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・無論尋常の密会を求める色文では無い。しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁れて、過去の記念の甘みが味いたいと云う欲望をほのめかしている。男子の貞操を守っていない夫に対して、復讐がしてやりたいと云う心持が、はっきり筆に書いてはないが、文句の端々に曝・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼集、文雄集、曙覧集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まず源俊頼の『散木弃歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 私がはじめてそこへ行ったのはたしか尋常三年生か四年生のころです。ずうっと下の方の野原でたった一人野葡萄を喰べていましたら馬番の理助が欝金の切れを首に巻いて木炭の空俵をしょって大股に通りかかったのでした。そして私を見てずいぶんな高声で言・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・と叫んだ勘助は、おやと尋常でないその場の光景に気をのまれた。勇吉の家では、今障子に火がついたところだ。ひどい勢いで紙とさんが燃え上る明りの前で、勇吉夫婦が足元も定らず入りみだれて影を黒くわめき散らしている。勘助は、あわてて荷を出そうとど・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・首を斬られる時なぞも、尋常に斬られる。女は尋常に服従したそうだ。無論小川君の好嫖致な所も、女の諦念を容易ならしめたには相違ないさ。そこで女の服従したのは好いが、小川君は自分の顔を見覚えられたのがこわくなったのだね。」ここまで話して、主人は小・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。「あははははは……」 長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、・・・ 横光利一 「微笑」
・・・頸、肩、腕なども尋常ではない。そこで彼女は在来のあらゆる演劇術を投げ捨てて、何事を現わすにも新しい方法を取った。 元来芸術家という者はその人に独特の色があるとともに一般的な性質がなければならない。そして一般的な所は伝統に従って表現し、独・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫