・・・そよ風になびく旗、河岸や橋につながれた小舟、今日こそ聖ヨハネの祭日だという事が察せられます。 ところがそこには人の子一人おりません。二人はまず店に買い物に行って、そこでむすめは何か飲むつもりでしたが、店はみんなしまっていました。「マ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・また、その日の黄昏時、おなじ島の南にあたる尾野間という村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟を一隻引きながら、東さしてはしって行くのを、村の人たちが発見し、海岸へ集って罵りさわいだが、漸く沖合いのうすぐらくなるにつれ、帆影は闇の中へ消えた・・・ 太宰治 「地球図」
・・・楫も無い丸木舟が一艘するすると岸に近寄り、魚容は吸われるようにそれに乗ると、その舟は、飄然と自行して漢水を下り、長江を溯り、洞庭を横切り、魚容の故郷ちかくの漁村の岸畔に突き当り、魚容が上陸すると無人の小舟は、またするすると自ら引返して行って・・・ 太宰治 「竹青」
・・・池の中島にガルバをすえて、小船でサーモジャンクションを引っぱりあるいては、時々の水温の水平ならびに垂直分布を測った。冬の最中のある日に観測中に某君が誤って水中に落ち、そのために病気を起こした事もあった。水温の分布はあまり珍しい事もなかったが・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・ カヤクと称する一人乗の小舟も面白いものである。上衣の胴着の下端の環が小舟の真中に腰を入れる穴の円枠にぴったり嵌まって海水が舟中へ這入らないようにしてあるのは巧妙である。命懸けの智恵の産物である。 これなども見れば見るだけ利口になる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・孕の海にジャンと唱うる稀有のものありけり、たれしの人もいまだその形を見たるものなく、その物は夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行くなりけり、漁業をして世を渡るどちに、夜半に小舟浮かべて、あるは釣りをたれ、あるいは網を打ちて幸多かる・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・「取る棹の心長くも漕ぎ寄せん蘆間小舟さはりありとも」。国家の元首として、堅実の向上心は、三十一文字に看取される。「浅緑り澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」。実に立派な御心がけである。諸君、我らはこの天皇陛下を有っていながら、たとえ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・道の両側には生垣をめぐらし倉庫をかまえた農家が立並び、堤には桟橋が掛けられ、小舟が幾艘も繋がれている。 遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがっているが、目を遮るものは空のはずれを行く雲より外には何物もない。卑湿の地もほどなく・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子を降りながら、サ・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・隙間なく黒き布しき詰めたる小船の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇、白き百合を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期なし。父と兄とは唯々として遺言の如く、憐れなる少女の亡骸を舟に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫