・・・苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌わしきものの痕なければ土に帰る人とは見えず。 王は厳かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ちょっと舌癌にかかったからと云うて踵で飯を食う訳には行かず、不幸にして痳疾を患いたからと申して臍で用を弁ずる事ができなくなりました。はなはだ不都合であります。しかし意識の連続と云う以上は、――連続の意義が明暸になる以上は、――連続を形ちづく・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・人の子を教うるの学塾にして、かえって、これを傷うの憂いなきを期すべからず、云々と。 我が輩、この忠告の言を案ずるに、ある人の所見において、つまり政治経済学の有用なるは明らかなれども、これを学びて世を害すると否とは、その人に存す。弱冠の書・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・ 我が輩は論者の言を聞き、その憂うるところははなはだもっともなりと思えども、この憂いを救うの方便にいたりては毫も感服すること能わざる者なり。そもそも論者の憂うるところを概言すれば、今の子弟は上を敬せずして不遜なり、漫に政治を談じて軽躁な・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・天気のよい時でも、天気のわるい時でも、チャッチャッチャッと朝から鳴き立てて憂いを知らぬ愉快な鳥であると思うて居たが、ことしの春自分の病が段々に勢をまして、遂に精神の煩悶を来すようになって来て、今まで愉快であったカナリヤの声が遽にうるさくなっ・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・女としての咲きかかった花の美しさ、自覚の底に揺れ揺れている娘の感覚と、女としての夕やけの美しさ、見事さ、愁いと知慧のまじりあった動揺の姿とが、どんな人生の絵をつくり出すかということは、情痴の一面からではあるがモウパッサンが「死よりも強し」の・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・にさえ、家庭の資産状態が調べられなければならない。数年前デパートの女店員は家庭を助けたが、今は家庭が中流で両親そろい月給で生計を助ける必要のないものというのが採用試験の条件である。「大人」に憂いが深いばかりか大人になりつつある若い男女の心も・・・ 宮本百合子 「「大人の文学」論の現実性」
・・・そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定を・・・ 横光利一 「微笑」
・・・やがて古えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああなつかしきその代の人となりたい。しかし、今、此宵の月に角笛は響かず。キーツは憧憬の眼を月に向けた。 キーツが何と言おうともこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊活の詩人が山・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
・・・先生もおそらく後顧の憂いのない気持ちがしていられたことと思う。 小林君の話によると、先生は最後に呵々大笑せられたという。わたくしはそれが先生の一面をよく現わしていると思う。 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫