・・・ 彼は、スバーの涙に特別な注意を払い、彼女が優しい心を持っているに違いないと思いました。今日、両親と別れるのが辛くて歎いている心は、やがて、自分の為になる財産の一つとなるだろうと考えたので、彼は、それをも、スバーに対する信用の一つに加え・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・するわけでもないし、天才だのなんだのとそんな馬鹿げた自慢をした事もありませんし、秋ちゃんなんかが、あの先生の傍で、私どもに、あの人の偉さに就いて広告したりなどすると、僕はお金がほしいんだ、ここの勘定を払いたいんだ、とまるっきり別な事を言って・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・もっともI君の家は医家であったので、炎天の長途を歩いて来たわれわれ子供たちのために暑気払いの清涼剤を振舞ってくれたのである。後で考えるとあの飲料の匂の主調をなすものが、やはりこの杏仁水であったらしい。 明治二十年代の片田舎での出来事とし・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・仕事をするには邪魔も払いたくなるはず。統一統一と目ざす鼻先に、謀叛の禁物は知れたことである。老人の※には、花火線香も爆烈弾の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・女は驚ろいた様もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子に、はたと他の一疋と高麗縁の上で出逢う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里の菓子皿を端まで同行・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附の到来したる例は、世間に珍しからず。 人の智恵は、善悪にかかわらず・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・「勘定を払いな。」「あっ、そうそう。勘定はいくらになっていますか。」「お前のは三百四十二杯で、八十五銭五厘だ。どうだ。払えるか。」 あまがえるは財布を出して見ましたが、三銭二厘しかありません。「何だい。おまえは三銭二厘し・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ あっちじゃいつも青い茶を飲むんです、暑気払いに大変いいんです。 小さいカンの底に少し入っているまんま持って行ったら、手のひらへあけて前歯の間でかんだ。 ――これはありがたい! いい茶ですね、本物の青茶だ。 十一月四日。・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 道翹は蛛の網を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたか・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払い落してしまいたかった。梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦慄を覚え、黒黒とした樹立の沈黙に身をよせかけていくように歩いた。「僕はね、先生。」とまた暫くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫