・・・「中隊を止めて、方向転換をやらせましょうか。」 しかし、その瞬間、パッと煙が上った。そして程近いところから発射の音がひびいた。「お――い、お――い」 患者が看護人を呼ぶように、力のない、救を求めるような、如何にも上官から呼び・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ そこで互に親み合ってはいても互に意の方向の異っている二人の間に、たちまち一条の問答が始まった。「どこへでも出て辛棒をするって、それじゃあやっぱり甲府へ出ようって云うんじゃあないか。」とお浪は云い切って、しばし黙って源三の顔を見・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・首筋を明るいところまでくると、ちょっと迷ったとでもいうふうに方向をかえて、襦袢の襟に移った。それから襟の一番頂上まで来ると、また立ち止まった。その時女が箸を机の上におくと今虱が這いでてきたところが、かゆいらしく、顎を胸にひいて、後首をのばし・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・三人が三人、思い思いの方向を執って、同じ時代を歩もうとしていた。末子は、と見ると、これもすでに学校の第三学年を終わりかけて、日ごろ好きな裁縫や手芸なぞに残る一学年の生い先を競おうとしていた。この四人の兄妹に、どう金を分けたものかということに・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・たとえば、これまで深川の貧民たちのために尽力していた、富田老巡査のごときは、火の危険な街上にしまいまで立ちつくして、みんなを安全な方向ににがし/\したあげく、じぶんはついに焼け死んでしまいました。また、下谷から焼け出された或四十がっこうの一・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・船はすぐ方向をかえて、そこをはなれてしまいました。 墓場のそばを帆走って行く時、すべての鐘は鳴りましたが、それはすこしも悲しげにはひびきませんでした。 船がだんだん遠ざかってフョールドに来てみますと、そこからは太洋の波が見えました。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ こういう事を完全に仕遂げる事はなかなか容易な事ではないが、そういう方向への第一歩として、私は試みに次のような事を考えてみた。 先ず従来の例にならって母音をイエアオウの順に並べる。そしてイからウに至る間に唇は順に前方に突き出て行くも・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・て醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼らは各々・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 水の流れは水田の唯中を殆ど省線の鉄路と方向を同じくして東へ東へと流れて行く。遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫