・・・船の出るとき同行の芳賀さんと藤代さんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶を送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側にもたれて身動きもしないでじっと波止場を見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・ その前々晩に、遠所にいるお芳から電話がかかってきて、芝居の景気ををたずねて、場所の都合がどうかと言ってきた。お芳のいるのは土地の大きな妓楼で、金瓶楼という名を、道太はここへ来てから、たびたび耳にしていた。それはお絹も、家が没落したとき・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所から来る人にも頒ちたいというような下町気質を見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄をと云うと歯入屋へ持って行ったぎり・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・いつも景気のいい気持ばかりでもないんです。 ヘイ。 監獄がどの位、いけすかねえところか。 ちょうど私と同志十一人と放り込んだ。その密告をやった奴を、公判廷で私が蹴飛ばした時のこった。検事が保釈をとり消す、と言ってると、弁護士から・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・商売の景気を探らんために奔走する者は多けれども、子を育するの良法を求めんためにとて、百里の路を往来し、十円の金を費やしたる者あるを聞かず。旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕の思案を費・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・今日は二の酉でしかも晴天であるから、昨年来雨に降られた償いを今日一日に取りかえそうという大景気で、その景気づけに高く吊ってある提灯だと分るとその赤い色が非常に愉快に見えて来た。 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人が頻りに目に・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・どうです、今年の渡り鳥の景気は。」「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡り鳥ど・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・また、たくでは近頃景気がいいんですのよ、という風体だった細君連も、ちがった姿となっている。 そして、これらの変化にはやはり贅沢禁止のいろいろな運動が役にたっているにちがいないのだろう。街のプラタナスの今年の落葉は、「簡素のなかの美しさ」・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・顧みて口先ばかり景気のいい徹底家の言葉に注意を向けると、思わずその内容の空虚を感じないではいられないのである。 けれども「あきらめ」に達したゆえをもって先生は人生の矛盾不調和から眼をそむけたわけではなかった。先生はますます執拗にその矛盾・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫