・・・ 高台の職人の屈竟なのが、二人ずれ、翌日、水の引際を、炎天の下に、大川添を見物して、流の末一里有余、海へ出て、暑さに泳いだ豪傑がある。 荒海の磯端で、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、颯と風の通る音がして、思わず脊・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・欣弥 一別以来、三年、一千有余日、欣弥、身体、髪膚、食あり生命あるも、一にもって、貴女の御恩……白糸 (耳にも入撫子 (身を辷らして、欣弥のうしろにちぢみ、斉しく手を支白糸 欣弥 暑いにつけ、寒いにつけ、雨にも、風に・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・戸数は三十有余にて、住民殆ど四五十なるが、いずれも俗塵を厭いて遯世したるが集りて、悠々閑日月を送るなり。 されば夜となく、昼となく、笛、太鼓、鼓などの、舞囃子の音に和して、謡の声起り、深更時ならぬに琴、琵琶など響微に、金沢の寝耳に達する・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ あれは、八月の末であったか、アッツ玉砕の二千有余柱の神々のお名前が新聞に出ていて、私は、その列記せられてあるお名前を順々に、ひどくていねいに見て行って、やがて三田循司という姓名を見つけた。決して、三田君の名前を捜していたわけではなかっ・・・ 太宰治 「散華」
・・・「五十有余。この比よりは、大方せぬならでは、手だてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申す事あり。云々。」 次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思い込んで居た芭蕉に対する自・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 日本人の先祖がどこに生まれどこから渡って来たかは別問題として、有史以来二千有余年この土地に土着してしまった日本人がたとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・将又券番、暖簾等ノ芸妓ニ於テハ先ヅ小梅、才蔵、松吉、梅吉、房吉、増吉、鈴八、小勝、小蝶、小徳們、凡四十有余名アリ。其他ハ当所ノ糟粕ヲ嘗ムル者、酒店魚商ヲ首トシテ浴楼箆頭肆ニ造ルマデ幾ド一千余戸ニ及ベリ。総テ這地ノ隆盛ナル反ツテ旧趾ノ南浜新駅・・・ 永井荷風 「上野」
・・・の名吟を世に残してより、明治に至るまで凡二百有余年、墨水の風月を愛してここに居を卜した文雅の士は勝げるに堪えない。しかしてそが最終の殿をなした者を誰かと問えば、それは実に幸田先生であろう。先生は震災の後まで向嶋の旧居を守っておられた。今日そ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・また或は各地の固有に有余不足あらんには互にこれを交易するも可なり。すなわち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。人生の所望この外にあるべからず。なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須いんや。・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・文化を動員する方法は大きい変化を示しているにかかわらず、戦場文学ともいうべき火野の諸作が、本質的には桜井忠温の現実の反映のし方から決して三十有余年の人間知性の深化を語っていないというのは、如何なる理由によるのだろう。 文学としてはこれら・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
出典:青空文庫