・・・ 宿の本館に基督教信者の団体が百人ほど泊っていた。朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのよう・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・ 一時、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほと・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・女房とすら彼は余所目には打ち解けなかった。朝夕顔を見合わす間柄はそんなに追従いうことの出来ないのは当然である。だが其兄とさえ昵まぬ太十だから、どっちかといえばむっつりとした女房は実際こそっぱい間柄であった。孰れの村落へ行っても人は皆悪戯半分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ウィリアムはこの盾を自己の室の壁に懸けて朝夕眺めている。人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来に渉って吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只幻影の盾と答える。ウィリアムはその・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・女子の気品を高尚にして名を穢すことなからしめんとならば、何は扨置き父母の行儀を正くして朝夕子供に好き手本を示すこと第一の肝要なる可し。又結婚に父母の命と媒酌とにあらざれば叶わずと言う。是れも至極尤なり。民法親族編第七百七十一条に、子・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・婦人の生活の朝夕におこる大きい波、小さい波、それは悉く相互関係をもって男子の生活の岸もうつ大波小波である現実が、理解されて来る。女はどうも髪が長くて、智慧が短いと辛辣めかして云うならば、その言葉は、社会の封建性という壁に反響して、忽ち男は智・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・親戚朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒えて光尚に拝謁した。光尚は鉄砲十挺・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習になっているので忍藻も自然太刀や薙刀のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々しくなった。手首の太いのや眼光のするどいのは全くそのためだろう。けれ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・湖を渡る蒸気船が学校のすぐ横の桟橋から朝夕出ていったり、這入って来たりするたびに、汽笛が鳴った。ここの学校に私は一ヶ月もいると、すぐ同じ街の西の端にある学校へ変った。家がまた新しく変ったからであるが、この第二の学校のすぐ横には疏水が流れてい・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・――彼らが朝夕その偶像の前に合掌する時、あるいは偶像の前を回りながら讃頌の詩経を誦する時、彼らの感激は一般の参詣者よりもさらに一層深かったに相違ない。 私はこの種の僧侶のうち、特に天分の豊かであった少数のものが、単に「受くる者」「味わう・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫