・・・という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾である。……盾の話しはこの時代の事と思え。 この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角を倒まにして全身を蔽う位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐にて肩から釣るす種類で・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包み・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・モスクワのレーニン研究所所属レーニン博物館へ行ったものは、レーニンがウリヤーノフという本名で中学生だったころ、どんなに行状のよい優等生であったかを知るとともに、クレムリンに政府が引越して来てから、レーニンがどんな室に住んでいたかも、見ること・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・はいわゆる文壇の内幕をあばき、私行を改め、代作横行を暴露し、それぞれの作家を本名で槍玉にあげたことを、文学的意味ではなく、文壇的意味において物議をかもし出したのであった。 ある作家、編輯者はこの作に対して公に龍胆寺に挑戦をしたり、雑誌の・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・不如意な窮屈な生活と闘い、自分ながら本名を出しかねるような三文小説を売りながらも、次第にバルザックは文学における自身の力をおぼろげに自覚しはじめたらしく思われる。彼は「自分の思想の一番いいところをこんな仕事に犠牲にしなければならないのは堪ら・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・名は雛勇本名は山崎のお妙チャンと云う子だった。純京都式の眉のまんまるくすりつけてあるひたえのせまい、髪の濃い口のショッピリとした女だった。私はおたえちゃんと呼んで見たりうろ覚えに「雛勇はん」と呼んであとで笑ったりして居た。「お百合ちゃん」私・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・尾世川がいくら訊いても笑って本名を教えない。尾世川は勝手に鳥ちゃん、鳥ちゃんとその娘を呼んだ。 三 その女は、程なく千束へ戻った。尾世川もその後訪ねて行った模様であったが、くわしいことを尋ねもしないうちに、尾世・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・あれは本名を Johann Kaspar Schmidt と云って、伯林で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出す時に、随分極端な議論だから、本名を署せずに出したのだ。しかし今では Reclam 版になっていて、誰でも読む。・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・だもんだから、こっそり脱け出して遊びに来るにも、俳号で来るので、本名は誰にもいえないのです。まア、斎藤といっておきますが、これも仮名ですから、そのおつもりで。」 高田はそう梶に云ってから、この栖方は、特種な武器の発明を三種類も完成させ、・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫