・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・草ぼうきもあれば杓子もある。下駄もあれば庖刀もある。赤いべべを着たお人形さんや、ロッペン島のあざらしのような顔をした土細工の犬やいろんなおもちゃもあったが、その中に、五、六本、ブリキの銀笛があったのは蓋し、原君の推奨によって買ったものらしい・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・――もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした草臥れた態で、真中に三方から取巻いた食卓の上には、茶道具の左右に、真新しい、擂粉木、および杓子となんいう、世の宝貝の中に、最も興がった剽軽ものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが可訝いくら・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、杓子ですくうて、線香で担って、燈心で括って、仏様のうしろで、一切食や、うまし、二切食や、うまし…… 紀州の毬唄で、隠微な残虐の暗示がある・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・今でこそ写楽々々と猫も杓子も我が物顔に感嘆するが、外国人が折紙を附けるまでは日本人はかなりな浮世絵好きでも写楽の写の字も知らなかったものだ。その通りに椿岳の画も外国人が買出してから俄に市価を生じ、日本人はあたかも魔術者の杖が石を化して金とす・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・劇の如きも今日でこそ猫も杓子も書く、生れて以来まだ一度も芝居の立見さえした事のない連中が一と幕物を書いてる。児供のカタゴトじみた文句を聯べて辻褄合わぬものをさえ気分劇などと称して新らしがっている事の出来る誠に結構な時勢である。が、坪内君が『・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・一時は猫も杓子も有頂天になって、場末のカフェでさえが蓄音機のフォックストロットで夏の夕べを踊り抜き、ダンスの心得のないものは文化人らしくなかった。 が、四十年前のいわゆる鹿鳴館時代のダンス熱はこれどころじゃなかった。尤も今ほど一般的では・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 言葉ばかりでなく、大阪という土地については、かねがね伝統的な定説というものが出来ていて、大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ 思えば、きょうこの頃の日本人は、猫も杓子もおきまりの紋切型文句を言い、しかも、その紋切型しか言わなくなってしまったが、私は猫にも杓子にもなりたくないから、かえすがえすも紋切型を避けたいとは思う。しかし、大阪の闇市場のことを書くとすれば・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・猫も杓子も定説に従う。亜流はこの描写法を小説作法の約束だと盲信し、他流もまたこれをノスタルジアとしている。頭が上らない。しかし、一体人間を過不足なく描くということが可能だろうか。そのような伝統がもし日本の文学にあると仮定しても、若いジェネレ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫