・・・――明治四三、七、二三『東京朝日新聞』―― 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものは惨じめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校を卒えてからすぐ田舎の中学校に行った。それから暫く山口の高等学校にいたが、遂に四高の独語教師・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・がもう一学期半辛抱すれば、華やかな東京に出られるのだからと強いて独り慰め、鼓舞していた。 十月の末であった。 もう、水の中に入らねばしのげないという日盛りの暑さでもないのに、夕方までグラウンドで練習していた野球部の連中が、泥と汗とを・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・下関が集散地になっているだけで、河豚は瀬戸内海はもちろん、玄海灘でも、どこの海でもとれる。東京近海にもたくさんいる。ただ、周防灘の姫島付近の河豚が一等味がよく、いわゆる下関河豚の本場となっている。(因 私は北九州若松港に生まれて育ったの・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・妹の方が少し意地悪ではないかと思ッていたことまでそのままで、これが少し気に喰わないけれども、姉さん姉さんと慕ッてくれて、東京風に髪を結ッてくれろなどと言うところは、またなかなか愛くるしくも思われる。かねて平田に写真を見せてもらッて、その顔を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・曾て東京に一士人あり、頗る西洋の文明を悦び、一切万事改進進歩を気取りながら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・くだもの類を東京では水菓子という。余の国などでは、なりものともいうておる。○くだものに准ずべきもの 畑に作るものの内で、西瓜と真桑瓜とは他の畑物とは違うて、かえってくだものの方に入れてもよいものであろう。それは甘味があってしかも生で食う・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・九州からまるで一飛びに馳けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障子が二枚はずれてね『すっかり嵐になった』とつぶやき・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・信州地方の風景的生活的特色、東京の裏町の生活気分を、対比してそれぞれを特徴において描こうとしているところ、又、主人公おふみの生きる姿の推移をその雰囲気で掴み、そこから描き出して行こうとしているところ、なかなか努力である。カメラのつかいかたを・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
出典:青空文庫