・・・わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないような気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井。」側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」と勒されていた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・登り詰めたる階の正面には大いなる花を鈍色の奥に織り込める戸帳が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴く。聴きおわりたる横顔をまた真向に反えして石段の下を鋭どき眼にて窺う。濃やかに斑を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師匠が憎悪して居たところの、すべての Homo と現象に対して復讐した。言はばニイチェは、師匠の仇敵を討つた勇士のやうなものである。文部省の教科書でも、ニイチェは大に賞・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・所に道徳あり家族あり、その美風は西洋の文明国人をしてかえって赤面せしむるもの少なからず、以て家を治め以て社会を維持するその事情は云々、その証拠は云々と語らんとすれども、何分にも彼らが今日の実証を挙げて正面より攻撃するその論鋒に向かっては、残・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・奥の正面に引っ込んだ住いがある。別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯が設けてある。家番に問えば、目指す家は奥の住いだと云った。 オオビュルナンは階段を登ってベルを鳴らした。戸の内で囁く声と足音とがし・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・殊に日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘らぬという論でもってその驚きを打ち消してしもうた。その後不折君と共に『小日本』に居るようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論・・・ 正岡子規 「画」
・・・ 柏の木どもは大王を正面に大きな環をつくりました。 お月さまは、いまちょうど、水いろの着ものと取りかえたところでしたから、そこらは浅い水の底のよう、木のかげはうすく網になって地に落ちました。 画かきは、赤いしゃっぽもゆらゆら燃え・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・陽子は、新らしい机の前にかけて見た。正面に夜の硝子窓があった。その面に、電燈と机の上のプリムラの花が小さくはっきり映っている。非常に新鮮な感じであった。夜気はこまやかに森として、遠くごく遠く波の音もする。夜、波の音は何故あのように闇にこもる・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」 徳右衛門は戸をが・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・湯槽の向こうには肌ざわりのよさそうな檜の流し場が淡い色で描いてあり、正面の壁も同じように湯気に白けた檜の色が塗られている。右上には窓があって、その端のわずかに開いたところから、庭の緑や花の濃い色が、画面全体を引きしめるようにのぞいている。い・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫