・・・云いつかった時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫をしなければならない。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩い・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 私は通りへ出ると、口笛を吹きながら、傍目も振らずに歩き出した。 私はボーレンへ向いて歩きながら、一人で青くなったり赤くなったりした。 五 私はボーレンで金を借りた。そして又外人相手のバーで――外人より入れない・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・そして、八本足で立って歩きながら逃げようとする。イイダコ釣りは面白いので、私はヒマを見つけるとときどき試みるが、一日に六十匹も引きあげたことがある。 役者の佐々木孝丸さんは、ペルリ上陸記念碑のある横須賀の久里浜に住んでいるが、すこぶる釣・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分愛想尽しをおっしゃるね」「言いますとも。ねえ、小万さん」「へん、また後で泣こうと思ッて」「誰が」「よし。きっとだね・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その年の秋、穀物がとにかくみのり、新らしい畑がふえ、小屋が三つになったとき、みんなはあまり嬉しくて大人までがはね歩きました。ところが、土の堅く凍った朝でした。九人のこどもらのなかの、小さな四人がどうしたのか夜の間に見えなくなっていたのです。・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・のではなくて、事実の性質とその解決の方向を明らかにして、たとえ半歩なりともその方へ歩き出すための矢じるしの一つとして、書かれている。云わば、番地入りの地図として書かれている。それだからこそ、私たちの生活の必要にぴったりと結びついており、生活・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・と、小川は云って、傘を傾けて、並んで歩き出した。「そうかね。」「いつも君の方が先きへ出ているじゃあないか。何か考え込んで歩いていたね。大作の趣向を立てていたのだろう。」 木村はこう云う事を聞く度に、くすぐられるような心持がする。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ツァウォツキイはまた歩き出した。 ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・とナポレオンは片手を上げて冗談を示すと、階段の方へ歩き出した。 ネーは彼の後から、いつもと違ったナポレオンの狂った青い肩の均衡を見詰めていた。「ネー、今夜はモロッコの燕の巣をお前にやろう。ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫