・・・次の間には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀な叔母の挨拶に無造作な目礼を返しながら、後に従った慎太郎へ、「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。飛んで行くさかい。 蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 虫の息の親父は戸板に乗せられて、親方と仲間の土方二人と、気抜けのしたような弁公とに送られて家に帰った。それが五時五分である。文公はこの騒ぎにびっくりして、すみのほうへ小さくなってしまった。まもなく近所の医者が来る事は来た。診察の型だけ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・のあるので、「そうですねえ、まるきりがっかりしないでもないだろうと思う、というわけは、戦争最中はお互いにだれでも国家の大事だから、朝夕これを念頭に置いて喜憂したのが、それがおやめになったのだから、気抜けの体にちょっとだれもなったに相違な・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ 外へ出たが直ぐ帰えることも出来ず、さりとて人に相談すべき事ではなく、身に降りかかった災難を今更の如く悲しんで、気抜けした人のように当もなく歩いて溜池の傍まで来た。 全たく思案に暮れたが、然し何とか思案を定めなければならぬ。日は暮れ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練げも無く、その三羽も飛び立つ。魚容は気抜けの余りくらくら眩暈して、それでも尚、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞に煙る湖面を眺めてただ・・・ 太宰治 「竹青」
・・・二人の男も、なんだか笑いながらしているようで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひっくりかえり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになって、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久し振りに天気のよい日曜である。宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通り・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・酒のにおいのこもった重くるしいうっとうしい空気が家の中に満ちて、だれもかれも、とんと気抜けのしたようなふうである。台所ではおりおりトン、コトンと魚の骨でも打つらしい単調な響きが静かな家じゅうにひびいて、それがまた一種の眠けをさそう。中二階の・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・家君さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚い弟はあるし、妹はあるし、お前さんも知ッてる通り母君が死去のだから、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫