・・・わが肉体いちぶいちりん動かさず、すべて言葉で、おかゆ一口一口、銀の匙もて啜らせ、あつものに浮べる青い三つ葉すくって差しあげ、すべてこれ、わが寝そべって天井ながめながらの巧言令色、友人は、ありがとうと心からの謝辞、ただちにグルウプ間に美談とし・・・ 太宰治 「創生記」
・・・君、恥じるがいい、ただちに、かの聯想のみ思い浮べる油肥りの生活を! 眼を、むいて、よく見よ、性のつぎなる愛の一字を! 求めよ、求めよ、切に求めよ、口に叫んで、求めよ。沈黙は金という言葉あり、桃李言わざれども、の言葉もあった、けれども・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・私はただ漠然と日常の世界に張り渡された因果の網目の限りもない複雑さを思い浮べるに過ぎなかった。 あらゆる方面から来る材料が一つの釜で混ぜられ、こなされて、それからまた新しい一つのものが生れるという過程は、人間の精神界の製作品にもそれに類・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・そうして、肉桂酒、甘蔗、竹羊羹、そう云ったようなアットラクションと共に南国の白日に照らし出された本町市の人いきれを思い浮べることが出来る。そうしてさらにのぞきや大蛇の見世物を思い出すことが出来る。 三谷の渓間へ虎杖取りに行ったこともあっ・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業との間にある因果関係を思い浮べるものも少なくないだろう。しかしこれは空風が吹いて桶屋が喜ぶというのと類似の詭弁に過ぎない。当面の問題には何の役にも立たない。 しかしともかくも厄年が多くの・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・私は所定めず切貼した本堂の古障子が欄干の腐った廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になっ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 自分は厳かなる唐獅子の壁画に添うて、幾個となく並べられた古い経机を見ると共に、金襴の袈裟をかがやかす僧侶の列をありありと目に浮べる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響出るのを聞き得るようにも思う。また・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇の時期と名づける、これは女の方でこの恋を斥けようか、受けようかと思い煩う間の名である」といいながらクララの方を見た時に、ク・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・その物の光景は今でもありありと眼に浮べる事が出来る。前はと問われると困る、後はと尋ねられても返答し得ぬ。ただ前を忘れ後を失したる中間が会釈もなく明るい。あたかも闇を裂く稲妻の眉に落つると見えて消えたる心地がする。倫敦塔は宿世の夢の焼点のよう・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫