・・・そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・栄蔵の昔の姿を思い浮べると一緒に、小ざっぱりとした着物に、元結の弾け弾けした、銀杏返しにして朝化粧を欠かさなかった、若い、望のある自分も見えて来た。 無意識に手をのばして、自分の小さい櫛巻にさわった時、とり返しのつかぬ、昔の若さをしたう・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・いい生活というとき、芝生があってテニスコートもあるような家を心に思い浮べるのは、どんな卑俗な若者でも、映画ぐらい見ていれば一応は描く空想であろう。どしどし仕事をして儲けて、それを実現する生きかたは、小説にかかれるまでもなく踏み古された凡庸な・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
・・・未来のために与えられる一つの援助は、過去に向って与えられる賞讚よりも常に高貴であるという言葉を、新たな感動をもって思い浮べる次第です。〔一九四〇年五月〕 宮本百合子 「健康な美術のために」
・・・と云う表情を、日にやけた小癪な反り鼻のまわりに浮べる。 もう一遍、さも育ちきった若者らしく、じろりと私に流眄をくれ、かたりと岡持をゆすりあげ、頓着かまいのない様子で又歩き出す。三尺をとっぽさきに結んだ小さい腰がだぶだぶの靴を引ずる努力で・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・しかし、この言葉が云われるとき人々はその口辺に一寸薄笑いを浮べる。からくりはお手のものというわかり合いが互の間にとりかわされるのが普通だからである。 小説のことに関して、こんな話し出しかたは奇妙のようにも見える。けれども、出版という企業・・・ 宮本百合子 「商売は道によってかしこし」
・・・と憂いの表情を浮べるので、子も不安がる。そんな思いをさせてはわるいと、子供を戸外へやることが書かれている。 父親は、すぐその答えから、試験官が銀座なんかへよく行く子はよくない、と思うだろうという恐怖を持ったのであった。 小説の父親の・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・ そして、淋しい、思いやりのある微笑を浮べる。 雲に映る 子供、母を失う、九つ位 男の子 夕暮、空をながめる 山のわきにきまって母の横顔そっくりの雲が小さく、一寸見ると見つからない程、然し一遍見つけると決・・・ 宮本百合子 「一九二三年夏」
・・・て居たらしく――人の話に依れば確かに一度見れば忘れない印象を与えるそうだったが、私に対しては記憶の裡の叔父の顔と今生きて居る或る盲目に成ろうとして居る男との顔が混同して、宙に顔の細かい部分部分まで思い浮べる事は非常に難かしい事なのである。・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・そしてあの世棄人も、遠い、微かな夢のように、人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、疾くに一切折伏し去った物に過ぎぬ。 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋め・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫