・・・女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢に等しく、いつも重そうな瞼の下に、夢を見ているようなその眼色には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・八重は夜具を敷く前、塵を掃出すために縁側の雨戸を一枚あけると、皎々と照りわたる月の光に、樹の影が障子へうつる。八重はあしたの晩、哥沢節のさらいに、二上りの『月夜烏』でも唱おうかという時、植込の方で烏らしい鳥の声がしたので、二人は思わず顔を見・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色は滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。 ところが見ているものは、・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちているようなので、うしろを振り向いて見ますと、おお、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから、十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいているのです。わたくしどもは思わず声をあ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・よだかはその火のかすかな照りと、つめたいほしあかりの中をとびめぐりました。それからもう一ぺん飛びめぐりました。そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫びました。「お星さん。西の青じろいお星さん。どう・・・ 宮沢賢治 「よだかの星」
・・・旧市街はその下に午後のうっすり寒い光を照りかえしている。足場。盛に積まれつつある煉瓦。 十月二十八日。 水色やかんを下げてYが、ヒョイヒョイとぶような足つきで駅の熱湯供給所へ行く後姿を、自分は列車のデッキから見送っている。あたり・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 日本の文学が、今日そういう足の萎えた状態にあることは、まったく日本の明治文化の本質の照りかえしである。明治維新は、日本において人権を確立するだけの力がなかった。ヨーロッパの近代文化が確立した個人、個性の発展性の可能は、明治を経て今日ま・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・日々の生活にあっては、今日と云い、今と云う、一画にぱっと照りつけた強い光りにぼかされて、微に記憶の蠢く過去と、糢糊としての予測のつかない未来とが、意識の両端に、静に懸っているのである。有のままをいえば、遠く過ぎ去った小学校時代を屡々追想して・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・大夫の赤顔が、座の右左に焚いてある炬火を照り反して、燃えるようである。三郎は炭火の中から、赤く焼けている火ひばしを抜き出す。それを手に持って、しばらく見ている。初め透き通るように赤くなっていた鉄が、次第に黒ずんで来る。そこで三郎は安寿を引き・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫