・・・下女は日が暮れたと云ったら、どんな用事があっても、家の外へは一歩も踏出さなくなった。忠義一図の御飯焚お悦は、お家に不吉のある兆と信じて夜明に井戸の水を浴びて、不動様を念じた為めに風邪を引いた。田崎が事の次第を聞付けて父に密告したので、お悦は・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「どうして、こんなに早く、――何か用事でも出来たんですか」と御母さんが真面目に聞く。どう答えて宜いか分らん。嘘をつくと云ったって、そう咄嗟の際に嘘がうまく出るものではない。余は仕方がないから「ええ」と云った。「ええ」と云った後で、廃・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 今年の春は、十年余も足帝都を踏まなかった余が、思いがけなくも或用事のために、東京に出るようになった、着くや否や東圃君の宅に投じた。君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつも・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、―・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ * * * 吉里は用事をつけてここ十日ばかり店を退いているのである。病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るを如何なる用事あるも文を通わす可らずとは、我輩は之を女子の教訓と認めず、天下の奇談として一笑に附し去るのみ。一 身の荘も衣裳の染色模様抔も目にたゝぬ様にすべし。身と衣服との穢ずして潔なるはよし。勝て清を尽し人の目に立つ程なる・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・もう用事はないから下って寝てくれい。(暫く物を案ずる様子にてあちこち歩く。舞台の奥にてヴァイオリンの音聞ゆ。物懐しげに人の心を動かす響なり。初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ はしなく浮世の用事思いいだされければ朝とくより乗合馬車の片隅にうずくまりて行くてを急ぎたる我が行脚の掟には外れたれども「御身はいずくにか行き給う、なに修禅寺とや、湯治ならずばあきないにや出で給える」など膝つき合わす老女にいたわられたる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・「それから、はがきの文句ですが、これからは、用事これありに付き、明日出頭すべしと書いてどうでしょう。」 一郎はわらって言いました。「さあ、なんだか変ですね。そいつだけはやめた方がいいでしょう。」 山猫は、どうも言いようがまず・・・ 宮沢賢治 「どんぐりと山猫」
用事があって、岩手県の盛岡と秋田市とへ数日出かけた。帰途は新潟まわりの汽車で上野へついた。 秋田へ行ったのもはじめてであったし、山形から新潟を通ったのもはじめてであった。夏も末に近い日本海の眺めは美しくて、私をおどろか・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
出典:青空文庫