・・・意識的には無我の真情からそうするにしても結果においては先生にとって嬉しくないかもしれない。 場合によってはかえって先生の味方でなかったあるいは敵であった人々の方面からも隠れた伝記資料を求める事も必要ではないかと思うのである。敵の証言が味・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥り過ぎてかえって真情の潤いに乏しくなった古来の道徳に対する反感から、わざと悪徳不正を迎えて一時の快哉を呼ぶものとも見られる。要するに厭世的なるかかる詭弁的精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・しかし同じく生れて詩人となるやその滅びたる芸術を回顧する美的感奮の真情に至っては、さして多くの差別があろうとも思われぬ。 否々。自分は彼れレニエエが「われはヴェルサイユの最後の噴泉そが噴泉の都の面に慟哭するを聴く。」と歌った懐古の情の悲・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情のある人を、何であんなに冷遇くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・私交なれば、近く接して交情をまっとうするの例もなきに非ざれども、その人、相集まりて種族を成し、この種族と、かの種族と相交わるにいたりては、此彼遠く離れて精神を局外に置き遠方より視察するに非ざれば、他の真情を判断して交際を保つこと能わざるべし・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々竊に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・現代の女は、決してあらゆる時と処とでそんなに単純素朴に真情を吐露し得る事情におかれてはいない、そのことは女自身が知っている。ある何人かの悧巧な女が、その男のひとの受け切れる範囲での真率さで、わかる範囲の心持を吐露したとしても、それは全部でな・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ 幾百年の過去から、恐ろしい伝統、宿命を脱し切れずにいる、所謂為政者等は、彼等の人間的真情の枯渇に、何かの弁明を見出すかもしれない。けれども、私共、平の人間、真心を以て人間の生活、真の人生と云うものを掴握しようとする者が、互に生きている・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・ちっとも語調に真情がない、―― 軈て発車した。 私は眠い。一昨日那須温泉から帰って来、昨日一日買いものその他に歩き廻って又戻って行こうとしているのだから。それに窓外の風景もまだ平凡だ。僅かとろりとした時、隣りの婆さんが、後の男に呼び・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・自分の行動、感情のいろいろを、ますます自分にはっきりした責任あるものとさせながら、そのような自分の行動、感情の明暗にかかわってきている社会的なものを見て、ひとの生きてゆく有様にも一層深い真情にふれた理解と興味とを抱き得るように成長してゆくこ・・・ 宮本百合子 「女の自分」
出典:青空文庫