・・・「それなら君の未来の妻君の御母さんの御眼鏡で人撰に預った婆さんだからたしかなもんだろう」「人間はたしかに相違ないが迷信には驚いた。何でも引き越すと云う三日前に例の坊主の所へ行って見て貰ったんだそうだ。すると坊主が今本郷から小石川の方・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が坐って、黙って熱心に仕事をしていた。 街は人出で賑やかに雑鬧していた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳いてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・金張りの素通しの眼鏡なんか、留置場でエンコの連中をおどかすだけの向だよ。今時、番頭さんだって、どうして、皆度のある眼鏡で、ロイド縁だよ。おいらあ、一月娑婆に居りあ、お前さんなんかが、十年暮してるよりか、もっと、世間に通じちまうんだからね。何・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、男の眼にも男らしい男振りであるから、遊女なぞにはわけて好かれそうである。 吉里が入ッて来た時、二客ともその顔を見上げた。平田はすぐその眼を外らし、思い出したように猪口を取ッて仰ぐがごとく口へつけ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・きのうも珍らしく色の青い眼鏡かけた書生が来て何か頻りに石塔を眺めて居たと思ったら、今度或る雑誌に墓という題が出たのでその材料を捜しに来たのであった。何でも今の奴は只は来ないよ。たまに只来た奴があると石塔をころがしたりしやアがる。始末にいけな・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 兎のお父さんはそれを受けとって眼鏡をはずして、よくよく調べてから言いました。 「お前はこんなものを狐にもらったな。これは盗んで来たもんだ。こんなものをおれは食べない」そしておとうさんは、も一つホモイのお母さんにあげようと持っていた・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・と云いながら、眼鏡をはずした。眼鏡は、鼻に当るところに真綿が巻きつけてある。五つ年下の植村婆さんは、耳の遠い沢やに、大きな声で悠くり訊いた。「いよいよ行ぐかね?」 沢や婆は、さも草臥れたように其に答えず、「やっとせ」と上・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・そして懐から鼻紙袋を出して、その中の眼鏡を取って懸けた。さて上書を改めたが、伜宇平の手でもなければ、女房の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙で・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・折々眼鏡を掛けた老人の押丁が出て名を呼ぶ。とうとうツァウォツキイの番になって、ツァウォツキイが役人の前に出た。 役人は罫を引いた大きい紙を前に拡げて、その欄の中になんだか書き入れていたが、そのまま顔を挙げずに、「名前は」と云った。「・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・人はそれぞれの時代的、風土的な特殊の様式に対して、眼鏡の度を合わせることを学ばねばならない。そうすることによってそれぞれの物が鮮明に見え、その物の持つ意義が読み取られ得るのである。自分にとって鮮明でないからといってその物を無意義とするのは単・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫