・・・と泰然として瞬き一ツせず却て僕の顔を見返した。「おぼし召じゃ困るね。いくらほしいのだ。」 斯ういう掛合に、此方から金額を明言するのは得策でない。先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・女は小羊を覘う鷲の如くに、影とは知りながら瞬きもせず鏡の裏を見詰る。十丁にして尽きた柳の木立を風の如くに駈け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼の鎧に満身の日光を浴びて、同じ兜の鉢金よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみさんさんと靡かしている。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・って生爪を剥がす、その苦戦云うばかりなし、しかしてついに物にならざるなり、元来この二十貫目の婆さんはむやみに人を馬鹿にする婆さんにして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、瞬きもせず余が黄色な面を打守りていかなる・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・とウィリアムは瞬きして顔をそむける。「夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに、花多き国に行く気はないか」とシワルドは意味有気に問う。「花多き国とは?」「南の事じゃ、トルバダウの歌の聞ける国じゃ」「主がいにたいと云うのか」「わしは行か・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 善吉はややしばらく瞬きもせず吉里を見つめた。 長鳴するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう蕈のように長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのよう・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・いつか空がすっかり晴れてまるで一面星が瞬きまっ黒な四つの岩頸がただしくもとの形になりじっとならんで立っていた。 野宿第二夜わが親愛な楢ノ木大学士は例の長い外套を着て夕陽をせ中に一杯浴びてす・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・筆を握って瞬きもせずそのはっきりした四角な区切りを見つめていると、ひとりでに手が動いてどうしても右から先に落ちる。はっとする間もなく、私は次の一字も右側から先に書き出してしまった。 後から覗いていた母は、黙って、私の手を肩越しに掴んだ。・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・と云い出したとしても、照子は瞬き一つせず、勿論極りなど悪がらず、「ああ、あれ、入ってなかったんですね。がっかりしちまった」と笑い乍ら、あっさり至極あたり前に片づけて仕舞いそうにさえ感じられるのだ。 傍机の壺に投げ入れた喇叭水・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・僕はさっき飾磨屋を始て見たとき、あの沈鬱なような表情に気を附け、それからこの男の瞬きもせずに、じっとして据わっているのを、稍久しく見て、始終なんだか人を馬鹿にしているのではないかというような感じを心の底に持っていた。この感じが鋭くなって、一・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫