・・・ 楊樹の蔭を成しているところだ。車輛が五台ほど続いているのを見た。 突然肩を捉えるものがある。 日本人だ、わが同胞だ、下士だ。 「貴様はなんだ?」 かれは苦しい身を起こした。 「どうしてこの車に乗った?」 理由を・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ とにかく、わずかな季節の差違で、去年はなかったものが、今突然目の前に出現したように思われるのであった。不注意なわれわれ素人には花のない見知らぬ樹木はだいたい針葉樹と扁葉樹との二色ぐらいか、せいぜいで十種二十種にしか区別ができないのに、・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・その方と秋山さんの親御が、区役所の兵事課へ突然車をおつけになって、小野某と云う者が、田舎の何番地にいる筈だが、そこへ案内しろと仰ったそうです。兵事課じゃ、何か悪いことでもあったかと吃驚したそうでござえんすがね、何々然云う訳じゃねえ、其小野某・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・玩具のように小さく見える列車が突然駐って、また走り出すのと、そのあたりの人家の殊に込み合っている様子とで、それは中山の駅であろうと思われた。 水はこの辺に至って、また少しく曲りやや南らしい方向へと流れて行く。今まで掛けてある橋は三、四カ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・太十は尚お去ろうともしなかった。突然戸が開いた。太十は驚いて身を引いた。其機会に流し元のどぶへ片足を踏ん込んだ。戸を開けたのは茶店の女房であった。太十は女房を喚び挂けて盥を借りようとした。商売柄だけに田舎者には相応に機転の利く女房は自分が水・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配し・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・奴は矢っ張り私を見て居たが突然口を切った。「あそこへ行って見な。そしてお前の好きなようにしたがいいや、俺はな、ここらで見張っているからな」このならず者はこう云い捨てて、階段を下りて行った。 私はひどく酔っ払ったような気持だった。私の・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・そのうち突然自分が今に四十になると云うことに気が附いて、あんな常軌を逸した決心をしたのではあるまいか。」これはちと穿鑿に過ぎた推論である。しかしこんなのが女にありそうな心理状態だと思うと、特別の面白みがある。 ピエエル・オオビュルナンは・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(ほとんど突然と音楽の声止や、音楽が止んだ。己の心を深く動かした音楽が、神と人との間の不思議を聞せるような音楽が止んだ。大方己のために不思議の世界を現じた楽人は、詰らぬ乞食か何かで、門に立って楽器を鳴らしていたのが、今は曲を終ったので帽子で・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・と詠み、見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美のおのが鼻の尖にぶらさがりたるをも知らぬ貫之以下の歌よみが、何百年の間、数限りもなくはびこりたる中に、突然として曙覧の出でたるはむしろ不思議の感なきに非ず。彼は何に縁りてここに悟るところあ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫