・・・ 悪漢佐伯も、この必死の抗議には参ったらしく、急に力が抜けた様子で、だらりと両腕を下げ、蒼白の顔に苦笑を浮かべ、「返すよ。返すよ。返してやるよ。」と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ブルウル氏は蒼白の広い額をさっとあからめて彼のほうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で軽くおさえ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows som・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・可能を、ふと眼前に、千里韋駄天、万里の飛翔、一瞬、あまりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天、不吉な程に大きな黒アゲハ、もしくは、なまあたたかき毛もの蝙蝠、つい鼻の先、ひらひら舞い狂い、かれ顔面蒼白、わなわなふるえて、はては失神せんば・・・ 太宰治 「創生記」
・・・その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」「言うな!」とメロス・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳らない団塊である。額には皺、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・燧の鉄と石の触れあう音、迸る火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃えつくときの蒼白な焔の色と亜硫酸の臭気、こうした感覚のコムプレッキスには祖先幾百年の夢と詩が結び付いていたような気がする。 マッチのことは「スリツケ」と云った。「摺・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・からだは相当肥っていたが、蒼白な顔色にちっとも生気がなくて、灰色のひとみの底になんとも言えない暗い影があるような気がした。 あるひどい雨の日の昼ごろにたずねて来たときは薄絹にゴムを塗った蝉の羽根のような雨外套を着ていたが、蒸し暑いと見え・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ 平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 台の後に男が立っているのだが、赧っぽい髪と、顎骨の張った厳しい蒼白な顔つきとで、到底、買いてを待つ商人とは思えなかった。兵隊であったかと感じる程、身じろぎもせず、げんなりした風もなく突立っている。見て、寒い恐怖に近いものが感じられた。・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・死に対してさえ冷淡な蒼白さを、大胆に、声高く謳った。ギッピウスの詩は、腐敗したロシアのブルジョア社会が放つ気味悪い燐光として閃きわたった。 現在、ソヴェト同盟の婦人作家として活動している婦人作家のなかの多くの人々は、もうこの時代に生れて・・・ 宮本百合子 「プロレタリア婦人作家と文化活動の問題」
出典:青空文庫