・・・が、妙子は相変らず目蓋一つ動かさず、嘲笑うように答えるのです。「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・クララは小箱の蓋に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたくは静かな夜の中に淋しく終った。その中に心は段々落着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう…… 蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった――「この松の事だろうか……」 ―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・蓆蓋を除けて見ると垢臭い。随分多勢はいったと見える。省作は取りあえずはいる。はいって見れば臭味もそれほどでなく、ちょうど頃合の温かさで、しばらくつかっているとうっとりして頭が空になる。おとよさんの事もちょっと忘れる。雨が少し強くなってきたの・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・またどういう仔細があったか知らぬが、維新の際に七十万両の古金銀を石の蓋匣に入れて地中に埋蔵したそうだ。八兵衛の富力はこういう事実から推しても大抵想像される。その割合には名前が余り知られていないが、一生の事業と活動とは維新の商業史の重要な頁を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ すると、箱の蓋がひとりでにヒョイと明いて中から子供が飛出しました。首も手も足もちゃんと附ていて、怪我一つしていない子供が、ニコニコ笑いながら、みんなの前に立ちました。 やがて、子供と爺さんは箱と綱を担いで、いそいそと人込の中へ隠れ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・オットセイの黒ずんだ肉を売る店があったり、猿の頭蓋骨や、竜のおとし児の黒焼を売る黒焼屋があったり、ゲンノショウコやドクダミを売る薬屋があったり、薬屋の多いところだと思っていると、物尺やハカリを売る店が何軒もあったり、岩おこし屋の軒先に井戸が・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打った紅いレッテルの美わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。 仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・そこは、空気が淀んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱や馬鈴薯の匂いが板蓋の隙間からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫