・・・そういう私はいまだに都会の借家ずまいで、四畳半の書斎でも事は足りると思いながら、自分の子のために永住の家を建てようとすることは、われながら矛盾した行為だと考えたこともある。けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その日、その日に不自由さえなくば、それでこの世の旅は足りる。私に肝要なものは、余生を保障するような金よりも強い足腰の骨であった。 大きくなった子供らと一緒に働くことの新しいよろこび、その考えはどうにか男親の手一つで四人のちいさなものを育・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・たちに酒肴を供するに足りる筈はなかったのである。 しかし、事態は、そこまで到っている。皆、呑むつもりなのだ。早稲田界隈の親分を思いがけなく迎えて、当然、呑むべきだと思っているらしい気配なのだ。 私は井伏さんの顔を見た。皆に囲まれて籐・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・けれども、そんな時たまの支払いだけでは、とても足りるものではなく、もう私どもの大損で、なんでも小金井に先生の家があって、そこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるという事を聞いていましたので、いちどそちらへお勘定の相談にあがろうと思って、それ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思った。その原稿に対しての、私の期待が大きすぎるのかも知れないが、私は戦線に、私たち丙種のものには・・・ 太宰治 「鴎」
・・・勝治には、足りるわけがない。一日で無くなる事もある。何に使うのか、それは後でだんだんわかって来るのであるが、勝治は、はじめは、「わかってるじゃねえか、必要な本があるんだよ」と言っていた。小使銭を支給されたその日に、勝治はぬっと節子に右手を差・・・ 太宰治 「花火」
・・・とても、足りるものではない。すなわち、書斎に引き籠り、人目を避けてたちまち大食いの本性を発揮したというわけなのである。とかく、いつわりの多い子である。チョコレート二十、ドロップ十個を嚥下し、けろりとしてトラビヤタの鼻唄をはじめた。唄いながら・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 人間が地上ばかりを歩いている間は普通の地図で足りるが、空を飛び歩くようになった今日では航空用の地図が必要になった。しかし、現在の航空地図はまだほんの芽ばえのようなもので普通の地形図に少しばかり毛のはえたものである。しかし今に航空がもっ・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・下宿や洗濯屋の払いを済ませても二十円あれば足りる。今年は例年の事を思えば楽な暮であるが、去年や一昨年の苦しかった暮には、却って覚えなかった一種の不安と淋しさを覚えて、膝の上のまじょりか皿と、老い増さる母の顔とを思い比べた。四丁目で電車を下り・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・そうして単に雪後の春月に対して物思う姿の余情を味わえば足りるであろう。 連想には上記のように内容から来るもののほかにまた単なる音調から来る連想あるいは共鳴といったような現象がしばしばある。これはわれわれ連句するものの日常経験するところで・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫