・・・『たけくらべ』第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであろう。春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・人間の歴史は今日の不満足を次日物足りるように改造し次日の不平をまたその翌日柔らげて、今日までつづいて来たのだから、一方から云えばまさしくこれ理想発現の経路に過ぎんのであります。いやしくも理想を排斥しては自己の生活を否定するのと同様の矛盾に陥・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・それは物を書くひとは、ペンとインクと原稿紙があれば事が足りると、一応いえるであろう。もしそのペン、インクがなければ鉛筆一本で足りさせることが出来る。原稿紙がなければ普通のノートで間に合わせられる。ひどい時には一枚ずつ質も色も形もちがう紙の上・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・これからの幾波瀾のなかで、あなたの鉛筆、そしてわたしたちすべてのものの鉛筆が、真に懐中するに足りるものであるためには、どれだけかの勉学と堅持とがいることでしょう。詩人よ、すぐれた天質を高めよ。詩が理性のうたであるときいて、しりごみした旧い詩・・・ 宮本百合子 「鉛筆の詩人へ」
・・・ 科学教育のことが云われるからには、有益な科学の原理的な知識とともに、無私なよい観察者としての能力と、独創性を発揮するに足りるだけの周密、動的な推理の力とを二本の脚とする科学の精神が、あらゆる男女の心に培かわれてゆくことを願っていいので・・・ 宮本百合子 「科学の精神を」
・・・しかし、この率は、ソヴェト同盟における生産面の拡大に比べると、とても足りるものではない。 社会主義的生産にあって、少数の技師だけが卓抜ならいいという事は決して云えない。あらゆる勤労者の技術水準が、去年よりは今年、今年よりは来年と高められ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェト同盟の文化的飛躍」
・・・いかに苦しんでも苦しみ足りるという事のないこの人生を、私はともすれば調子づいて軽々しく通って行く、そしてその凝視の不足は直ちに表現の力弱さとして私に報いて来るのである。私はもっとしっかりと大地を踏みしめて、あくまで浮かされることを恐れなくて・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・たといそれが、世界的潮流に乗っている洋画家の努力から見て、時代錯誤の印象を与えずにはいない程度のものであるにしても、とにかく現代人の要求を充たすに足りる新生面の開拓の努力は喜ぶべきことである。 しかしこの十年来の革新の努力がどういう結果・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・しかしそういう地位からばかりでなく、その学識の点において、応永、永享の時代を代表するに足りるであろう。彼の眼界は、日本、シナ、インドの全体にわたり、仏教哲学、程朱の学、日本の古典などにすべて通じている。著書も多く、当時の学問の集大成の観があ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・自分の愛は二、三の特殊の場合をようやく支えるに足りるほどである。 それ故に自分は醜くまた弱い自分を絶えず眼の前に見ている。自分の我を以て常に人の弱所を突こうとしている卑しい自分を絶えず見まもっている。後悔が鋭く胸を刺すことも稀ではない。・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫