・・・ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」 その時、もう・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・極右党も外国の侯爵に紙包みを返してやろうなんぞとは思わない。いわんやおれは侯爵でもなんでもないのである。ああ。ロシアよ。 おれは余りに愛国の情が激発して頭がぐらついたので、そこの塀に寄り掛かって自ら支えた。「これは、あなた、どうなさ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ これに反してアインシュタインの取扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人に親しくないために、その国語に熟しない人には容易に食い付けない。それ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・軍隊の命令は、総て、天皇陛下のお言渡しと心得ろと然う言って叱って返した。秋山さんも、何うも為方がねえ。 尤も奥さんの綾子さんの方でも、随分気はつけていた。遺書のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした拍子に、ちらと見てからと・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・と、冷たく云い放って、踵を返してバタバタ逃げ出してしまった。奴らは見張をしていたのだ。生意気に「宮本だ」と、平常親より怖れ、また敬っている自分へ、冷たく云い放ったときも、あの眼だ。 トラックを急がせて、会社近くの屈り角へ来たとき、不意に・・・ 徳永直 「眼」
・・・いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵ごとにその力を増すような西風に、とぎれて聞える鐘の声は屈原が『楚辞』にもたとえたい。 昭和・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・と男は黒き瞳を返して女の顔を眤と見る。「さればこそ」と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける。手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔え・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私の云う所の世界的世界形成主義と云うのは、他を植民地化する英米的な帝国主義とか連盟主義とかに反して、皇道精神に基く八紘為宇の世界主義でなければならない。抽象的な連盟主義は、その裏面に帝国主義に却って結合して居るのである。 歴史的世界・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎のどこの小さな町でも、商人は店先で算盤を弾きながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草を吸い、昼飯の菜・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
出典:青空文庫