・・・敵軍潰乱全線に総退却。 Kは号外をちらと見て、「あなたは?」「丙種。」「私は甲種なのね。」Kは、びっくりする程、大きい声で、笑い出した。「私は、山を見ていたのじゃなくってよ。ほら、この、眼のまえの雨だれの形を見ていたの。みん・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・四つ這いのままで退却しろ。」 と言って、またコツンと笠井氏の頭を殴りましたが、笠井氏は、なんにも抵抗せず、ふらふら起き上って、「男類、女類、猿類、いや、女類、男類、猿類の順か、いや、猿類、男類、女類かな? いや、いや、猿類、女類、男・・・ 太宰治 「女類」
・・・かもその雑誌社の人が仇敵か何かでもあるみたいに、ひどく憎々しげにまくしたてますので、わざわざ私の詩を頼みに来て下さる人たちも、イヤな顔をして、きっと私と女房と両方を軽蔑なさってしまうのでしょう、早々に退却してしまいます。そうして、女房は、そ・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・たまには勢負けして、吠えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなってくる。いちど小牛のようなシェパアドに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。はたして、ひとたまりもなかった。前足でころころポチをおも・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・が必ずクローズアップに映出されるのである。用事をすませてバルチモーアに立つという日に、急に「熱波」が退却して寒暖計は一ととびに九十五度から六十度に下がってしまったのである。 父が亡くなった翌年の夏、郷里の家を畳んで母と長女を連れ、陸路琴・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・裏の物置きなら明いているから来てみろと言って案内されたその室は、第一、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれた・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・いつもは地上百尺の上に退却している闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。 一週間も田舎へ行っていたあとで、夜の上野駅へ着いて広・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸を立てた。二畳に阿久がいて、お銚子だの煮物だのを運んだ。さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干瓢の代りに山葵を入れた海苔・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・様で、一人は吾が恩師である、さような無礼な事は平民たる我々風情のすまじき事である、のみならず捕虜の分際として推参な所作と思わるべし、孝ならんと欲すれば礼ならず、礼ならんと欲すれば孝ならず、やむなくんば退却か落車の二あるのみと、ちょっとの間に・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 右のごとく上士の気風は少しく退却の痕を顕わし、下士の力は漸く進歩の路に在り。一方に釁の乗ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙せざるもまた自然の勢、これを如何ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役なる者(全く非役には非ざれど・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫