・・・「辰之助が当然遠慮していいんだ。東京でいいものを見てきたのだから」道太は言った。「そやそや、どっちか一人ぬければいいわけだわ。姉さん京ちゃんにそう言ったんですか」おひろは言った。「私何だってそんなこと言うもんですか。でも京ちゃん・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子は富士前小学校の同級生で、引手茶屋何々家の娘だと答えたが、その言葉の中に・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・この条項のうちわが趣味の欠乏して自己に答案を検査するの資格なしと思惟するときは作家と世間とに遠慮して点数を付与する事を差し控えねばならん。評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張以外の諸点においては知・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・紳士だってやるのに俺が遠慮するって法はねえぜ。待て、だが俺は遠慮深いので紳士になれねえのかも知れねえぜ。まあいいや。―― 私は又、例の場所へ吸いつけられた。それは同じ夜の真夜中であった。 鉄のボートで出来た門は閉っていた。それは然し・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・食いしん坊だから、糸をたれさえすれば釣れるが、こういうときには遠慮するのである。こういういじらしい父性愛――それも私に似ているか、どうか。あまりいうと、女房に悪いから結論は出さないでおこう。・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・即ち親子の真面目を現わす所にして、其間に心置なく遠慮なきが故なり。其遠慮なきは即ち親愛の情の濃なるが故なり。其愛情は不言の間に存して天下の親子皆然らざるはなし。啻に出産老病の一事のみならず、人間の子にして父母を親しみ父母を慕い、父母にして子・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・不遠慮に何にでも手を触れるのが君の流儀で、口から出かかった詞をも遠慮勝に半途で止めるのが僕の生付であった。この二人の目の前にある時一人の女子が現れた。僕の五官は疫病にでも取付かれたように、あの女子のために蹣跚いてただ一つの的を狙っていた。こ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・友達の前であろうが、知らぬ人の前であろうが、痛い時には、泣く、喚く、怒る、譫言をいう、人を怒りつける、大声あげてあんあんと泣く、したい放題のことをして最早遠慮も何もする余地がなくなって来た。サアこうなって見ると、我ながらあきれたもので、その・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、鍵をもった人に出しました。「いや、商売ものを貰っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」「いや、すてきな・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 盛りあがった力あるプロレタリアートが階級的立場に立ってものをいうとき、遠慮して、兎だの亀だのに代弁させる必要はないのである。 これは、日本の闘争的プロレタリアートの心持にしろ同じである。 その代り、諷刺は昔のロシア文学の中に重・・・ 宮本百合子 「新たなプロレタリア文学」
出典:青空文庫