・・・再び私の体中を熱い戦慄が駈け抜けた。 彼女に話させて私は一体どんなことを知りたかったんだろう。もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しく喘ぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。 だが、私は彼・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 店梯子を駈け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれば乃ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際で人間を喰うというのは罪の深い事だと気が付いた、そこで直様善光寺へ駈けつけて、段々今までの罪を懺悔した上で・・・ 正岡子規 「犬」
・・・それより、まあ、駈ける用意をなさい。ここは最大急行で通らないといけません。」 楢夫も仕方なく、駈け足のしたくをしました。「さあ、行きますぞ。一二の三。」小猿はもう駈け出しました。 楢夫も一生けん命、段をかけ上りました。実に小猿は・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・犬は耳を立て此方を見たが、再び急がしそうに砂に鼻先をすりつけつつ波打ちぎわへ駆け去った。「あら、一寸こんな虫!」 陽子は、腹這いになっているふき子の目の下を覗いた。茶色の小さい蜘蛛に似た虫が、四本のこれも勿論小さい脚でぱッ、ぱッ、砂・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ がたがた馬車が、跳ね返る小馬に牽かれて駆けて往く。車台の上では二人の男、おかしなふうに身体を揺られている。そして車の中の一人の女はしかと両側を握って身体の揺れるのを防いでいる。 ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめて・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈け出して、井の端に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば・・・ 横光利一 「南北」
・・・私の心がある人の不幸に同情して興奮する、私は急いでその不幸を取り除くために駈け出す。私の心が自然の美に打たれて興奮する、私は喜びを現わさないではいられない。すなわち我々の生命活動は何らかの形で自己を表現することにほかならない。 我々が意・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫