・・・ それで民子は、例の襷に前掛姿で麻裏草履という支度。二人が一斗笊一個宛を持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩く・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏を突掛けるや戸外へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家を訪ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛に一寸一円貸せ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・それに軽い新しい麻裏草履をも穿いた。彼は足に力を入れて、往来の土を踏みしめ踏みしめ、雀躍しながら若い友達の方へ急いだ。 島崎藤村 「足袋」
・・・初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまでは、よかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・次の日の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 次の日の午時ごろ、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りのある露路の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱ぎ捨ててあり、同じ露路の隅田河の岸には、娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱ぎ捨ててあッたことが知れた。 けれども、死骸はたやす・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・殊に麻裏草履をまず車へ持ていてもらって、あとから車夫におぶさって乗るなんどは昔の夢になったヨ。愉快だ。たまらない。」(急いで出ようとして敷居に蹶「あぶないぞナ。」「なに大丈夫サ、大丈夫天下の志サ。おい車屋、真砂町まで行くのだ。」「お目出・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ 下のタタキに下駄の音をさせてその間に入り、塵くさいような、悪戯のような匂いを嗅ぎながら、柔かくなった麻裏を、ペタンと落して穿きかえる気持は、今もなお鮮に心の裡に遺っている。健康な、多勢な、まだ眠っている活気を、そこで第一に吸い込むので・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・息をこらして麻裏草履をつま立てて後にまわる。奴さんはまだ気がつかない。一足、又一足、敵との距離は三尺許になった。手をのばすより早く長い尾の毛を一寸引っぱろうとしたがまて、昔の武士は人の部屋に入るにさえもせきばらいしたと云うのにいくら世がかわ・・・ 宮本百合子 「三年前」
七月二十一日 晴 木の葉のしげみや花ずいの奥にまだ夜の香りがうせない頃に目が覚めた。外に出る。麻裏のシットリとした落つきも、むれた足にはなつかしい。 この頃めっきり広がった苔にはビロードのやわらかみと快い弾力が有ってみどりの細い・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫