・・・日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由にいい現してくれるものだと信じて疑わなかった。 自分は今、髯をはやし、洋服を着ている。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにいられよう。 夕陽は・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・青く濁った水の面は鏡の如く両岸の土手を蔽う雑草をはじめ、柳の細い枝も一条残さず、高い空の浮雲までをそのままはっきりと映している。それをば土手に群る水鳥が幾羽となく飛入っては絶えず、羽ばたきの水沫に動し砕く。岸に沿うて電車がまがった。濠の水は・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞の故に帰る。「宵見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽ち紅落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・――今日はそう云う条件の下にここに出現した訳であります。けれども不幸にしてあまり御覧に入れるほどな顔でもない。顔だけではあまり軽少と思いますからついでに何か御話を致しましょう。もとより演説と名のつく諸君よ諸君はとてもできませんから演説と云っ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・或る時、女中が杓文字の影を壁に映した。僕はそれを見て卒倒し、二日間も発熱して臥てしまった。幼年時代はすべての世界が恐ろしく、魑魅妖怪に満たされて居た。 青年時代になってからも、色々恐ろしい幻覚に悩まされた。特に強迫観念が烈しかった。門を・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 五人の坑夫たちは、尖ったり、凹んだりした岩角を、慌てないで、然し敏捷に導火線に火を移して歩いた。 ブスッ! シュー、と導火線はバットの火を受けると、細い煙を上げながら燃えて行った。その匂は、坑夫たちには懐しいものであった。その煙は・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 湖は、底もなく澄みわたった空を映して、魔の色をますます濃くした。「屠牛所の生き血の崇りがあの湖にはあるのだろう」 一週間ぐらいは、その噂で持ち切っていた。 セコチャンは、自分をのみ殺した湖の、蒼黒い湖面を見下ろす墓地に、永・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進も・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・俗に言う子供の馬鹿ほど可愛く片輪ほど憐れなりとは、親の心の真面目を写したるものにして、其心は即ち子供の平等一様に幸福ならんことを念ずるの心なり。故に其子の男女長少に論なく、一様に之を愛して仮初にも偏頗なきは、父母の本心、真実正銘の親心なるに・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫