・・・また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすでに父母の手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
東洋協會講演會に於いて、堯舜禹の實在的人物に非ざるべき卑見を述べてより已に三年、しかもこの大膽なる臆説は多くの儒家よりは一笑に附せられしが、林〔泰輔〕氏の篤學眞摯なる、前に『東洋哲學』に、近く『東亞研究』に、高説を披瀝して・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・しかるにいまだその文筆あるを覚らざるなり。 すでに西に帰り、信書しばしば至る。書中雅意掬すべし。往時弁論桿闔の人に似ざるなり。去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に頒つ。主意は泰西の理学と・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・ いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折しない元気を持っている。物に拘泥しない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、居合腰をし・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・日本兵のなすに足らざるを言って、虹のごとき気焔を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚が響き渡る。 「苦しい、苦しい、苦しい!」 寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・夏は納涼、秋は菊見遊山をかねる出養生、客あし繁き宿ながら、時しも十月中旬の事とて、団子坂の造菊も、まだ開園にはならざる程ゆゑ、この温泉も静にして浴場は例の如く込合へども皆湯銭並の客人のみ、座敷に通るは最稀なり。五六人の女婢手を束ねて、ぼんや・・・ 永井荷風 「上野」
・・・しかるに学殖の富衍なる、老師宿儒もいまだ及ぶに易からざるところのものあり。まことに畏敬すべきなり。およそ人の文辞に序する者、心誠これを善め、また必ず揚※をなすべきあり。しからずんば、いたずらに筆を援りて賛美の語をのべ、もって責めを塞ぐ。輓近・・・ 中江兆民 「将来の日本」
出典:青空文庫